『俺ガイル完』12話(最終話) 感想・考察 「こうして彼らのまちがった青春が始まる。」
この記事は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』第12話(最終話)
の感想・考察記事です。
「疑い続ける」こと
「だから、ずっと、疑い続けます。たぶん、俺もあいつも、そう簡単には信じないから」
「正解には程遠いが、100点満点の答えだな。本当に可愛くない。……それでこそ、私の最高の生徒だ」
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)505頁より。
「疑い続ける」という姿勢の獲得(自覚)は、この青春に対する最高の解だろう。
なぜ八幡が常に違和感や疑念を抱き続けてきたかというと、彼の選ぶ答えが常に正しい=本物だと信じて動いてきたからだ。
これが、ひと月近くかけて、俺が手にしたと、そう信じたものだ。
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑧』(ガガガ文庫、2013年)356頁より。
だから、俺は試みるべきなのだ。あの時間が共依存でないことの証明を。
それを終えて初めて、俺たちの正しい関係性を導くことができるのだと思う。
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)320,321頁より。13
仕事の打ち合わせをして、くだらない冗談を飛ばして、それ以外の話には触れないようにして。
きっとこれだ正しい距離感だ。
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)255頁より。
正しいと信じるから、まちがいに耐えられない。最高の答えだと言い張るから、過ちがずっとわだかまる。常套句のようで気恥ずかしいが、正しいと信じてしまったのなら後は落ちるだけなのである。
だから彼は「疑い続ける」。見つけた答えが本物だと酔ったふりはせず、選んだ道がまちがいだらけだとしても、本物なんてあるのかすらわからなくとも、ずっとそれを探し続ける。
「疑い続ける」とはすなわち「本物を求め続ける」ということだ。
「疑い続ける」限り常に本物ではないし、いつまでも本物を手にすることはないだろう。故に正解には程遠い。
しかし「本物を求め続ける」という点で、本物の存在を信じている。本物になろうと、近づこうとしている。
「考えてもがき苦しみ、あがいて悩め。──そうでなくては、本物じゃない」
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑧』(ガガガ文庫、2014年)235頁より。
その姿勢こそがいつか本物に到達しうるものだと言えるだろう。故に100点満点なのだ。
「疑い続ける」ことには際限がない。それを諦めるまで永遠に続く。
しかし同時に、「終わりがない」という解をもって、本物を求め続けた『俺ガイル』は完結するのだ。
彼ら彼女らは失う/諦める
『俺ガイル』の結末は、結果だけを見れば八幡と雪ノ下は結ばれ、奉仕部は復活し、由比ヶ浜も帰還する。こう文字に起こせば万事丸く収まった、何も失わない最高のハッピーエンドのように感じるだろう。ともすればそれがご都合主義であるという批判もしばしば見かけるし、私も初読時はそう思った。
実際ハッピーエンドのようであることに変わりはないのだが、しかし彼ら彼女らはそれぞれ代償に何かを失って/諦めている。だからより細かく定義づけるのなら、メリーバッドエンド的であると言えるだろう。(もっともこれが全く適切というわけでもないが)
メリーバッドエンドとは (メリーバッドエンドとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
『俺ガイル』において「諦める」こととは「大人になる」ことと同義であることは何度も本ブログにて解説してきたと思うが、その意味では彼ら彼女らは確実に大人の道を歩んでいる。
では彼ら彼女らが何を失ったのか、大人になったのか、それを一人ずつ考えていきたいと思う。
雪ノ下雪乃は失う/諦める
雪ノ下雪乃は自立の未来を失う/諦める。
これは八幡からの告白の内容が、二人が結ばれるということがそれを失くしてしまうことを前提としているからである。
お前は望んでないかもしれないけど……、俺は関わり続けたいと、思ってる。義務じゃなくて、意志の問題だ。……だから、お前の人生歪める権利を俺にくれ」
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)395頁より。
雪ノ下にとって八幡は依存の対象だった。告白後は現実の定義=「やめたくても、やめられない」状態ではないので依存ではないにしろ、八幡が強制的に関わるので、彼女の言うように自然と寄りかかることになるだろう。
だからその八幡と関わり続けるということは、自立を諦めることにほかならない。
雪ノ下雪乃は、一人で何かをやるということを諦めたのである。
彼女の寄りかかりを裏付ける証拠は大きく2つある。
第一に、雪ノ下は告白以降大きく八幡に影響を受ける。
「休日の公園ってこんなに混むのね。……正直、舐めてたわ。あと広い。すごく低い」
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)413頁より。
「やばいわよ。全く間に合う気がしないわ。やばい。軽く死ねるわ」
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)452頁より。
(疑いすぎであることは分かっているが、八幡がタピオカミルクティーの写真を撮った直後に「自分も撮りたい」という気持ちが湧いたことは、個人的に寄りかかった一例ではないかと考えている)
彼の口調、台詞に引っ張られるといえば、由比ヶ浜家にて八幡の言葉を一字一句違えずに陽乃に伝えた某日を思い出す(11巻/続13話)。
あの頃ほど酷くないのは依存ではない証左であるだろうが、しかしあの口調は十分引っ張られている部類に入るだろう。
第二に、告白以降八幡は雪ノ下に「可愛い」という評価を多用することだ。
かつての雪ノ下雪乃は、八幡にとって「孤高」の存在のように捉えられていただろう。それに伴って八幡は、彼女を、彼女の振る舞いを「美しい」「儚げ」と表現する事が多い。
俺が見てきた雪ノ下雪乃。
常に美しく、誠実で、嘘を吐かず、ともすれば余計なことさえ歯切れよく言ってのける。寄る辺がなくともその足で立ち続ける。
その姿に。凍てつく青い炎のように美しく、悲しいまでに儚い立ち姿に。
そんな雪ノ下雪乃に。
きっと俺は、憧れていたのだ。
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑤』(ガガガ文庫、2012年)218頁より。
流れる黒髪も、はためくスカートも、揺れるマフラーも、その立ち姿そのものが美しく、だから、近づくことを躊躇わせる。
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)53頁より。
しかしもう、その評価が出てこないほどに雪ノ下雪乃の孤高さは死んだ。
告白以降、彼女に「美しい」を連想させる言葉は一切用いられない。(ギリギリなラインに「氷の微笑」があるが、それは雪ノ下母⇔雪ノ下のとの対比のとして用いらているだけと考えた)
かつてのように、彼女のに凛然とした姿を見ることはないだろう。たとえそれが嘘や強がりや仮初であったとしても、彼女は強い女の子ではなくなった。世界が終わったあとも一人佇んでいるような異質さを纏うことも、もうないだろう。
でもそれは悪いことではない。ごく普通に考えて一人で全てをこなすなんて不可能で、誰にも頼れないなんて寂しいことはないだろう。
彼女は異質でもなんでもなく、「普通の女の子」なのだから。
それに彼女は彼と歩み続ける未来を得られた。触れた熱は冷めることなく、温かいままいられるだろう。
だから、雪ノ下雪乃は自立の未来を失った/諦めた。
比企谷八幡は失う/諦める
比企谷八幡は孤独の矜持を失う/諦める。
比企谷八幡はもう、ぼっちではない。
それは単に雪ノ下雪乃がいるからではない。同様に戸塚や材木座がいるからでもない。
八幡は葉山グループとの馴れ合いに、抵抗を示さなくなったからだ。
それが現れているシーンが、一見何の脈絡もなく始まったサウナの展開である。
アニメでは尺の都合(と主観的には葉山のしつこさ)によってカットされてしまったが、特にプロム=仕事の話もなく駄弁る雰囲気に嫌悪感を示さない。
他にも新学年で同じクラスになった葉山と海老名さんとも当たり障りのない会話を幾度かしたこと、雪ノ下に常套句を使うようにもなった。
「ごめんなさい、待った?」
「……今、来たとこ」
バカみたいな会話だと思いながらも、お定まりの言葉を口にした。雪ノ下もむず痒そうな苦笑を浮かべる。
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)405頁より。
(ちなみに7.5巻、一色とのデートにおいては一色の5分遅刻を「マジ待った」と言って怒られている)
かつて誰かとうまくやること、社会に適応することを「虚偽と猜疑と欺瞞」とまで言いのけた彼は(4巻、1期7話)、今や「そのうちうまくやれるようになる」「会社に入って普通に働く」と口にする。
しかしこれもまた、当たり前のことではある。ひたすら孤独な生き方などできるわけもなく、常人であれば誰かとそつなくやり過ごし、お為ごかしに決まり文句を使い倒し、普通の日々を送っていく。
そうやっていつか抱いた社会への不満も世界への憤慨も失って諦めて、大人になっていくのだろう。
だから、比企谷八幡は孤独の矜持を諦めた。
(補遺:同様に、比企谷八幡は由比ヶ浜結衣との未来を失った/諦めた。理由は11話の記事を参考にしていただきたいが、簡潔に言えば「待たなくていい」と言ったことが理由。)
由比ヶ浜結衣は失う/諦める
由比ヶ浜結衣は正しさを失う/諦める。
由比ヶ浜はまた他の二人とは違い、諦めることが諦めることになっていない。
「諦めること」を諦めたという言い方が正しいだろうか。
もともと由比ヶ浜結衣は、大人、或いは大人であることを強いられた女の子だ。
諦めた、諦めることを強いられた女の子だ。
それは彼ら彼女らを心から想っている証拠であり、由比ヶ浜の「優しさ」や「正しさ」と言われるものだろう。
しかしその「優しさ」と「正しさ」を守るために、彼女は自分のお願いを失った/諦めた。
八幡の向いている方向に自分がいないこと、雪ノ下も八幡を想っていることをちゃんと分かっていて、苦悩と葛藤の末に由比ヶ浜は八幡を送り出した。諦めたのである。
彼女の行動はとても優しさに溢れている。或いは「大人」としてとても正しい。
故に最後まで正しく優しくあろうとした由比ヶ浜は、三浦らと共に行動していたし(アニメではカット)、二人で打ち合わせをしている姿を遠くから眺める。
しかし一色いろはからの囁きによって彼女は心変わりする。
「彼女がいる人好きになっちゃいけないなんて法律ありましたっけ?」
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)480頁より。
それがいいことだなんて思ってないけど。
こんなの、まちがってるってわかってるけど。
でも、あたしはまだもうちょっとだけ、浸っていいのかもしれない。
あの、あったかくて眩しい陽だまりに。
「よしっ!元気出た!いこっか!」
あたしは、二人の肩を抱いて、背中を押してもらった分だけ、その背中を精いっぱい押して。
前に歩き始める。
そして、あたしは。
あたしが居たいと思う場所へ、駆け出した。
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)483頁より。
もしこれまでの待ってきた大人な由比ヶ浜が正しいと評価されるのなら、自分の想いを伝えて、彼を略奪しようと画策し、彼と彼女の関係を壊しかねない発言をする由比ヶ浜は、きっと子供でまちがっている。
しかし優しくて大人で正しい由比ヶ浜のままでは、自分の気持ちを諦めたままでいなくてはいけない。
それに、八幡から「待たなくていい」と言われている。その言葉は大人な彼女を解放しようとした言葉だとも解釈できるだろう。
彼女がまちがってもいい理由ができた。自分の気持ちに正直に動いていい理由ができた。
だから、由比ヶ浜結衣は正しさを失った/諦めた。
失って、諦めて、少し得て、普通になっていく
きっと『俺ガイル』は、その過程を肯定しているのだろう。
これまで『俺ガイル』は青春を憎んでいた。
嘘であり、悪である青春を嫌い、致命的な失敗を拒み、嘘も秘密も、罪科も失敗さえも排除し、その悪に、その失敗を赦さない。嘘も欺瞞も秘密も詐術も糾弾してきた。
しかし昔日の八幡はもういない。
嘘であり、悪である青春を謳歌せんとし、致命的な失敗を青春の証として思い出の1ページに刻み、嘘も秘密も、罪科も失敗さえも青春のスパイスにして、その悪に、その失敗に特別性を見出す。嘘も欺瞞も秘密も詐術も、全ては青春だと容認する。
おおよそすべての問題は、解決などには程遠く、されど解消だけならぎりぎりなんとか、あの手この手のはったり嘘吐き適当こいて、その場しのぎに先送る。
いつかそのうち手痛いしっぺ返しを食らって、ツケを全部払わされて、ケツの毛一本残らずに、あますとこなく責任を取る羽目になるのだろう。
けれど、たぶん俺はそうしたいのだ。
今みたいに、ぼろぼろになって駆けずり回って、愚痴をこぼして、それでも仕事して。
そうやって、全部使い切って、そのうえで、悔みに悔んで悔みきり、青春時代なんてまちがいだらけで碌なもんじゃねえと、老後の縁側で小町の孫の孫町相手に繰り言をぼやいていたい。
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)495,496頁より。
かつての八幡レベルはありえないにしろ、青春とは概ね痛々しいものだ。自分が何者かになれると信じてやまなくて、或いは究極の愛だとか運命の人だとか、「人ごとこの世界を変える」などと言い張って日々を過ごすのだろう。
そしてまた、青春を全て抱えたまま80年を生きるということもない。
気高く孤高を貫き続けることも、誰にも助けを請わず責任を一人背負い続けることも、自分の気持ちを押し殺して優しさに徹することも、平凡な人間には不可能だ。
しかし本質は失う/諦めるという結果ではなく、それでも足掻き、苦しむ過程、或いはその過程によって得られる大切なものではないだろうか。
比企谷八幡と雪ノ下雪乃は互いに強い関係性を結ぶことができ、由比ヶ浜結衣は大切な二人のそばにいられることができた。また別ベクトルで強い関係性である「友人」を作ることもできただろう。
多くの何かを失って、諦めて、その代わりに少しの何かを得る。そうして誰しもがそれなりに普通に生きていく。
だから足掻いて、苦しんで、いつか失くしてしまうのだとしても、「今」なんだと。
そういう願いが込められているのではないだろうか。
終わりに
『俺ガイル』は私の人生そのものでした。
思春期の拗らせかけていた時期に、アニメ『俺ガイル』に出会った私は、八幡のダークヒーローさに憧れ、雪ノ下雪乃の孤高さを羨んで、見事に歪んでいきました。
そのおかげで得られたものといえば『俺ガイルが好き』という気持ちと肥大化した自意識くらいで、全く失ったものに釣り合いませんが、それでもこの人生を終わらせないくらいには今の自分が気に入っているのだと思います。
『俺ガイル』というコンテンツはこれで(一旦)終わりを迎えますが、これからも私は『俺ガイル』を読み続け、少しずつ歪んで、生きていくのだと思います。
以下、謝辞。(恐れ多いですが)
渡航様。
『俺ガイル』を作ってくださり本当にありがとうございました。この作品に抱いた気持ちは、私の人生で最も大事な気持ちの一つになると思います。
アニメスタッフ・キャストの皆様。
アニメ『俺ガイル』を制作してくださり感謝の念が耐えません。元々『俺ガイル』を知ったきっかけはアニメですので、もしアニメがなければ今の私は存在しません。素晴らしいアニメをありがとうございました。
拝読させていただいた/交流してくださった考察者の皆様。
私は3期から真面目に考察しはじめたと言っても過言ではないくらい新参者なのですが、いつも素晴らしい考察を読んでは感銘を受け、さらに考察を深めていけたと思います。時折反応してくださった方々には頭が上がりません。
ブログを読んでくれた皆様。
考察をすること自体は私のためではあるのですが、こうして読んでくださる人がいなければわざわざ記事にして投稿する意味もなく。たとえちらっと読んでくださっただけでも誰かに認識されたということが私の励みになっていました。本当にありがとうございます。
まだ書くべき記事が一つ残っていますし、機会があれば何か書くとは思いますが、とりあえず私の『俺ガイル完』考察はここで終わりとします。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
終わりが来れば、また始まる。
こうして彼らのまちがった青春がはじまる。