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理想を抱いて溺死したいのです

『俺ガイル完』12話(最終話) 感想・考察 「こうして彼らのまちがった青春が始まる。」

 

この記事は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』第12話(最終話)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

の感想・考察記事です。

 

 

 

 

 

 

「疑い続ける」こと

 

「だから、ずっと、疑い続けます。たぶん、俺もあいつも、そう簡単には信じないから」

「正解には程遠いが、100点満点の答えだな。本当に可愛くない。……それでこそ、私の最高の生徒だ」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)505頁より。

 

「疑い続ける」という姿勢の獲得(自覚)は、この青春に対する最高の解だろう。

 

なぜ八幡が常に違和感や疑念を抱き続けてきたかというと、彼の選ぶ答えが常に正しい=本物だと信じて動いてきたからだ。

 

これが、ひと月近くかけて、俺が手にしたと、そう信じたものだ。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑧』(ガガガ文庫、2013年)356頁より。

 

だから、俺は試みるべきなのだ。あの時間が共依存でないことの証明を。

それを終えて初めて、俺たちの正しい関係性を導くことができるのだと思う。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)320,321頁より。13

 

仕事の打ち合わせをして、くだらない冗談を飛ばして、それ以外の話には触れないようにして。

きっとこれだ正しい距離感だ。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)255頁より。

 

 

正しいと信じるから、まちがいに耐えられない。最高の答えだと言い張るから、過ちがずっとわだかまる。常套句のようで気恥ずかしいが、正しいと信じてしまったのなら後は落ちるだけなのである。

 

だから彼は「疑い続ける」。見つけた答えが本物だと酔ったふりはせず、選んだ道がまちがいだらけだとしても、本物なんてあるのかすらわからなくとも、ずっとそれを探し続ける。

 

「疑い続ける」とはすなわち「本物を求め続ける」ということだ。

 

「疑い続ける」限り常に本物ではないし、いつまでも本物を手にすることはないだろう。故に正解には程遠い。

しかし「本物を求め続ける」という点で、本物の存在を信じている。本物になろうと、近づこうとしている。

「考えてもがき苦しみ、あがいて悩め。──そうでなくては、本物じゃない」

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑧』(ガガガ文庫、2014年)235頁より。

 

その姿勢こそがいつか本物に到達しうるものだと言えるだろう。故に100点満点なのだ。

 

「疑い続ける」ことには際限がない。それを諦めるまで永遠に続く。

しかし同時に、「終わりがない」という解をもって、本物を求め続けた『俺ガイル』は完結するのだ。

 

 

 

彼ら彼女らは失う/諦める

 

『俺ガイル』の結末は、結果だけを見れば八幡と雪ノ下は結ばれ、奉仕部は復活し、由比ヶ浜も帰還する。こう文字に起こせば万事丸く収まった、何も失わない最高のハッピーエンドのように感じるだろう。ともすればそれがご都合主義であるという批判もしばしば見かけるし、私も初読時はそう思った。

 

実際ハッピーエンドのようであることに変わりはないのだが、しかし彼ら彼女らはそれぞれ代償に何かを失って/諦めている。だからより細かく定義づけるのなら、メリーバッドエンド的であると言えるだろう。(もっともこれが全く適切というわけでもないが)

 

メリーバッドエンドとは (メリーバッドエンドとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

 

『俺ガイル』において「諦める」こととは「大人になる」ことと同義であることは何度も本ブログにて解説してきたと思うが、その意味では彼ら彼女らは確実に大人の道を歩んでいる。

 

では彼ら彼女らが何を失ったのか、大人になったのか、それを一人ずつ考えていきたいと思う。

 

 

雪ノ下雪乃は失う/諦める 

 

雪ノ下雪乃自立の未来を失う/諦める。

 

これは八幡からの告白の内容が、二人が結ばれるということがそれを失くしてしまうことを前提としているからである。

お前は望んでないかもしれないけど……、俺は関わり続けたいと、思ってる。義務じゃなくて、意志の問題だ。……だから、お前の人生歪める権利を俺にくれ」

 

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)395頁より。

 

雪ノ下にとって八幡は依存の対象だった。告白後は現実の定義=「やめたくても、やめられない」状態ではないので依存ではないにしろ、八幡が強制的に関わるので、彼女の言うように自然と寄りかかることになるだろう。

 

だからその八幡と関わり続けるということは、自立を諦めることにほかならない。

雪ノ下雪乃は、一人で何かをやるということを諦めたのである。

 

 

彼女の寄りかかりを裏付ける証拠は大きく2つある。

 

第一に、雪ノ下は告白以降大きく八幡に影響を受ける。

 

「休日の公園ってこんなに混むのね。……正直、舐めてたわ。あと広い。すごく低い」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)413頁より。

 

「やばいわよ。全く間に合う気がしないわ。やばい。軽く死ねるわ」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)452頁より。

 

(疑いすぎであることは分かっているが、八幡がタピオカミルクティーの写真を撮った直後に「自分も撮りたい」という気持ちが湧いたことは、個人的に寄りかかった一例ではないかと考えている)

 

彼の口調、台詞に引っ張られるといえば、由比ヶ浜家にて八幡の言葉を一字一句違えずに陽乃に伝えた某日を思い出す(11巻/続13話)。

あの頃ほど酷くないのは依存ではない証左であるだろうが、しかしあの口調は十分引っ張られている部類に入るだろう。

 

 

 

第二に、告白以降八幡は雪ノ下に「可愛い」という評価を多用することだ。

 

かつての雪ノ下雪乃は、八幡にとって「孤高」の存在のように捉えられていただろう。それに伴って八幡は、彼女を、彼女の振る舞いを「美しい」「儚げ」と表現する事が多い。

 

俺が見てきた雪ノ下雪乃

常に美しく、誠実で、嘘を吐かず、ともすれば余計なことさえ歯切れよく言ってのける。寄る辺がなくともその足で立ち続ける。

その姿に。凍てつく青い炎のように美しく、悲しいまでに儚い立ち姿に。

そんな雪ノ下雪乃に。

きっと俺は、憧れていたのだ。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑤』(ガガガ文庫、2012年)218頁より。

 

流れる黒髪も、はためくスカートも、揺れるマフラーも、その立ち姿そのものが美しく、だから、近づくことを躊躇わせる。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)53頁より。

 

 

しかしもう、その評価が出てこないほどに雪ノ下雪乃の孤高さは死んだ。

告白以降、彼女に「美しい」を連想させる言葉は一切用いられない。(ギリギリなラインに「氷の微笑」があるが、それは雪ノ下母⇔雪ノ下のとの対比のとして用いらているだけと考えた)

 

かつてのように、彼女のに凛然とした姿を見ることはないだろう。たとえそれが嘘や強がりや仮初であったとしても、彼女は強い女の子ではなくなった。世界が終わったあとも一人佇んでいるような異質さを纏うことも、もうないだろう。

 

でもそれは悪いことではない。ごく普通に考えて一人で全てをこなすなんて不可能で、誰にも頼れないなんて寂しいことはないだろう。

彼女は異質でもなんでもなく、「普通の女の子」なのだから。

 

それに彼女は彼と歩み続ける未来を得られた。触れた熱は冷めることなく、温かいままいられるだろう。

 

だから、雪ノ下雪乃は自立の未来を失った/諦めた。

 

 

比企谷八幡は失う/諦める

 

比企谷八幡孤独の矜持を失う/諦める。

 

比企谷八幡はもう、ぼっちではない。

それは単に雪ノ下雪乃がいるからではない。同様に戸塚や材木座がいるからでもない。

八幡は葉山グループとの馴れ合いに、抵抗を示さなくなったからだ。

 

それが現れているシーンが、一見何の脈絡もなく始まったサウナの展開である。

アニメでは尺の都合(と主観的には葉山のしつこさ)によってカットされてしまったが、特にプロム=仕事の話もなく駄弁る雰囲気に嫌悪感を示さない。

他にも新学年で同じクラスになった葉山と海老名さんとも当たり障りのない会話を幾度かしたこと、雪ノ下に常套句を使うようにもなった。

 

「ごめんなさい、待った?」

「……今、来たとこ」

バカみたいな会話だと思いながらも、お定まりの言葉を口にした。雪ノ下もむず痒そうな苦笑を浮かべる。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)405頁より。

(ちなみに7.5巻、一色とのデートにおいては一色の5分遅刻を「マジ待った」と言って怒られている)

 

かつて誰かとうまくやること、社会に適応することを「虚偽と猜疑と欺瞞」とまで言いのけた彼は(4巻、1期7話)、今や「そのうちうまくやれるようになる」「会社に入って普通に働く」と口にする。

 

しかしこれもまた、当たり前のことではある。ひたすら孤独な生き方などできるわけもなく、常人であれば誰かとそつなくやり過ごし、お為ごかしに決まり文句を使い倒し、普通の日々を送っていく。

そうやっていつか抱いた社会への不満も世界への憤慨も失って諦めて、大人になっていくのだろう。

 

 

だから、比企谷八幡は孤独の矜持を諦めた。

 

(補遺:同様に、比企谷八幡由比ヶ浜結衣との未来を失った/諦めた。理由は11話の記事を参考にしていただきたいが、簡潔に言えば「待たなくていい」と言ったことが理由。)

 

 

由比ヶ浜結衣は失う/諦める

 

由比ヶ浜結衣正しさを失う/諦める。

 

 

由比ヶ浜はまた他の二人とは違い、諦めることが諦めることになっていない。

「諦めること」を諦めたという言い方が正しいだろうか。

 

もともと由比ヶ浜結衣は、大人、或いは大人であることを強いられた女の子だ。

諦めた、諦めることを強いられた女の子だ。

それは彼ら彼女らを心から想っている証拠であり、由比ヶ浜の「優しさ」や「正しさ」と言われるものだろう。

 

しかしその「優しさ」と「正しさ」を守るために、彼女は自分のお願いを失った/諦めた。

八幡の向いている方向に自分がいないこと、雪ノ下も八幡を想っていることをちゃんと分かっていて、苦悩と葛藤の末に由比ヶ浜は八幡を送り出した。諦めたのである。

 

彼女の行動はとても優しさに溢れている。或いは「大人」としてとても正しい。

 

故に最後まで正しく優しくあろうとした由比ヶ浜は、三浦らと共に行動していたし(アニメではカット)、二人で打ち合わせをしている姿を遠くから眺める。

 

しかし一色いろはからの囁きによって彼女は心変わりする。

「彼女がいる人好きになっちゃいけないなんて法律ありましたっけ?」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)480頁より。

 

それがいいことだなんて思ってないけど。

こんなの、まちがってるってわかってるけど。

でも、あたしはまだもうちょっとだけ、浸っていいのかもしれない。

あの、あったかくて眩しい陽だまりに。

「よしっ!元気出た!いこっか!」

あたしは、二人の肩を抱いて、背中を押してもらった分だけ、その背中を精いっぱい押して。

前に歩き始める。

そして、あたしは。

あたしが居たいと思う場所へ、駆け出した。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)483頁より。

 

もしこれまでの待ってきた大人な由比ヶ浜が正しいと評価されるのなら、自分の想いを伝えて、彼を略奪しようと画策し、彼と彼女の関係を壊しかねない発言をする由比ヶ浜は、きっと子供でまちがっている。

 

しかし優しくて大人で正しい由比ヶ浜のままでは、自分の気持ちを諦めたままでいなくてはいけない。

それに、八幡から「待たなくていい」と言われている。その言葉は大人な彼女を解放しようとした言葉だとも解釈できるだろう。

彼女がまちがってもいい理由ができた。自分の気持ちに正直に動いていい理由ができた。

 

 

だから、由比ヶ浜結衣は正しさを失った/諦めた。

 

 

 

失って、諦めて、少し得て、普通になっていく

 

きっと『俺ガイル』は、その過程を肯定しているのだろう。

 

 

これまで『俺ガイル』は青春を憎んでいた。

嘘であり、悪である青春を嫌い、致命的な失敗を拒み、嘘も秘密も、罪科も失敗さえも排除し、その悪に、その失敗を赦さない。嘘も欺瞞も秘密も詐術も糾弾してきた。

 

しかし昔日の八幡はもういない。

嘘であり、悪である青春を謳歌せんとし、致命的な失敗を青春の証として思い出の1ページに刻み、嘘も秘密も、罪科も失敗さえも青春のスパイスにして、その悪に、その失敗に特別性を見出す。嘘も欺瞞も秘密も詐術も、全ては青春だと容認する。

 

おおよそすべての問題は、解決などには程遠く、されど解消だけならぎりぎりなんとか、あの手この手のはったり嘘吐き適当こいて、その場しのぎに先送る。

いつかそのうち手痛いしっぺ返しを食らって、ツケを全部払わされて、ケツの毛一本残らずに、あますとこなく責任を取る羽目になるのだろう。

けれど、たぶん俺はそうしたいのだ。

今みたいに、ぼろぼろになって駆けずり回って、愚痴をこぼして、それでも仕事して。

そうやって、全部使い切って、そのうえで、悔みに悔んで悔みきり、青春時代なんてまちがいだらけで碌なもんじゃねえと、老後の縁側で小町の孫の孫町相手に繰り言をぼやいていたい。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)495,496頁より。

 

 

かつての八幡レベルはありえないにしろ、青春とは概ね痛々しいものだ。自分が何者かになれると信じてやまなくて、或いは究極の愛だとか運命の人だとか、「人ごとこの世界を変える」などと言い張って日々を過ごすのだろう。

 

そしてまた、青春を全て抱えたまま80年を生きるということもない。

気高く孤高を貫き続けることも、誰にも助けを請わず責任を一人背負い続けることも、自分の気持ちを押し殺して優しさに徹することも、平凡な人間には不可能だ。

 

 

しかし本質は失う/諦めるという結果ではなく、それでも足掻き、苦しむ過程、或いはその過程によって得られる大切なものではないだろうか。

 

比企谷八幡雪ノ下雪乃は互いに強い関係性を結ぶことができ、由比ヶ浜結衣は大切な二人のそばにいられることができた。また別ベクトルで強い関係性である「友人」を作ることもできただろう。

 

多くの何かを失って、諦めて、その代わりに少しの何かを得る。そうして誰しもがそれなりに普通に生きていく。

だから足掻いて、苦しんで、いつか失くしてしまうのだとしても、「今」なんだと。

そういう願いが込められているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

終わりに

 

『俺ガイル』は私の人生そのものでした。

思春期の拗らせかけていた時期に、アニメ『俺ガイル』に出会った私は、八幡のダークヒーローさに憧れ、雪ノ下雪乃の孤高さを羨んで、見事に歪んでいきました。

そのおかげで得られたものといえば『俺ガイルが好き』という気持ちと肥大化した自意識くらいで、全く失ったものに釣り合いませんが、それでもこの人生を終わらせないくらいには今の自分が気に入っているのだと思います。

 

『俺ガイル』というコンテンツはこれで(一旦)終わりを迎えますが、これからも私は『俺ガイル』を読み続け、少しずつ歪んで、生きていくのだと思います。

 

 

以下、謝辞。(恐れ多いですが)

 

渡航様。

『俺ガイル』を作ってくださり本当にありがとうございました。この作品に抱いた気持ちは、私の人生で最も大事な気持ちの一つになると思います。

 

アニメスタッフ・キャストの皆様。

アニメ『俺ガイル』を制作してくださり感謝の念が耐えません。元々『俺ガイル』を知ったきっかけはアニメですので、もしアニメがなければ今の私は存在しません。素晴らしいアニメをありがとうございました。

 

拝読させていただいた/交流してくださった考察者の皆様。

私は3期から真面目に考察しはじめたと言っても過言ではないくらい新参者なのですが、いつも素晴らしい考察を読んでは感銘を受け、さらに考察を深めていけたと思います。時折反応してくださった方々には頭が上がりません。

 

 

ブログを読んでくれた皆様。

考察をすること自体は私のためではあるのですが、こうして読んでくださる人がいなければわざわざ記事にして投稿する意味もなく。たとえちらっと読んでくださっただけでも誰かに認識されたということが私の励みになっていました。本当にありがとうございます。

 

 

 

まだ書くべき記事が一つ残っていますし、機会があれば何か書くとは思いますが、とりあえず私の『俺ガイル完』考察はここで終わりとします。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終わりが来れば、また始まる。

こうして彼らのまちがった青春がはじまる。

 

『俺ガイル完』11話 感想・考察 -Yui side-「だから、比企谷八幡はまちがっている。」

 

この記事は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』第11話

「想いは、触れた熱だけが確かに伝えている」

の感想・考察記事です。<Yui side>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

ついに彼ら彼女らの青春は一つの区切りを終えた。

 

彼女は彼と結ばれる結末を迎えたものの、彼女はついに結ばれなかった。

 

この記事では、-Yui side- と称して由比ヶ浜結衣について考察していく。

 

 (-Yukino side-に関しては準備中です)

 

 

 

 

「待つ」ということ

「待つ」の定義

 

「……なんか、待ってみたかったから」

 

(中略)

 

本当のところはわからない。

けれど、思えば。

彼女はいつも待っていてくれたのだ。

俺を、或いは俺たちを。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)320,321頁より。

 

「待つ」という言葉は由比ヶ浜結衣がよく使う表現だ。

奉仕部員において在り方が違う、或いは八幡と雪ノ下らの一歩先を行く正しい女の子は、「待つ」ことによって彼ら彼女らを迎い入れようとする。

 

この意味での「待つ」という言葉の初出は、6巻(1期11話)、文化祭にて雪ノ下の秘密(事故の件を黙っていた)について話すシーンだ。

 

「あたしね、ゆきのんのことは待つことにしたの。ゆきのんは、たぶん話そう、近づこうってしようとしてるから。……だから待つの」

 

(中略)

 

「でも、待っててもどうしようもない人は待たない」

「ん?まあ待っててもどうしようもない奴待っても仕方ないわな」

 

(中略)

 

「違うよ。待たないで、……こっちから行くの」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』(ガガガ文庫、2012年)254,255頁より。

 

これの他に12巻(3期1話)、雪ノ下が自分のお願いを語ろうとするときにも由比ヶ浜は「話そうとしてくれていたから、待ったほうがいいと思っていた」という言葉をこぼしている。

 

以上のことから、「待つ」の範囲は、「話そう、近づこうとする人」にのみ限定される。これはつまり、「関係性を進めたい人」だと言い換えられるだろう。

対して「待たない」の範囲は、そのまま「話そう、近づこうとしない人」、言い換えて「関係性を進めようとしない人」となる。

 

 

 

由比ヶ浜は待っていた/待つしかなかった

 

八幡の言う通り、由比ヶ浜結衣は「待って」いるところもある。

しかし先程引用した「待たないでこっちから行くの」の一節は、原作やアニメを見てもわかるように明らかに八幡に向けられたもので、となると由比ヶ浜は八幡を「待っていなかった」と言えてしまうのではないだろうか。

 

しかしそれはあくまで文化祭時点の話である。

 それ以後に八幡が「話そう、近づこう」とした決定的なシーンがある。

 

それが生徒会選挙での「本物がほしい」だ。

 

これまでのただの同じ部員としての態度ではなく、一歩踏み出して、さらに純度の高い関係性に進もうとした彼の言葉は、由比ヶ浜の「待つ」の範囲に入ったに違いない。

(本当はここで180度「待たない」→「待つ」に変えたと言うよりはもっとシームレスなのだろうが、『俺ガイル』が大きな区切りで生徒会選挙以前/以後に分けられるのでここを区切りとした)

 

 

由比ヶ浜が「待って」いた例で言えば、雪ノ下の事故の件を聞かないでおいた、プロムを手伝いに呼ばれるまで待機した、八幡に「私のお願い叶えるまでに考えといて」と言ったことなど、いくつかあることにはあるのだが、最大の「待つ」という行為はそれらではない。

 

彼女が最も「待った」のは、「自分のお願いを強引に叶えようとしなかったこと」だ。

 

水族館デートの際に雪ノ下を自分のお願いに誘導したように、由比ヶ浜はその気になれば強引にそちらの未来を選択できる。あの時のように八幡の制止を振り切れるかどうかは悩ましいところではあるが、少なくとも彼女はそのために持ちうる全ての選択肢(ともすれば誰かを歪めるという選択)を実行したわけではない。

雪ノ下の「父の仕事を手伝いたい」という願いに疑問を抱きつつも見過ごし、八幡の「ちゃんと終わらせる」という願いに自分を押し殺して応えようとした。

仮に二人に「八幡が好きだ」と伝えたら、「ゆきのんのお願いはそれでいいの?」と問うたら、それらが二人の考えを変えるものになるのかは分からないが、何かしら自分の願いに近しい方に引き寄せられたかもしれない。

 

それは彼女の落ち度だとも言えるが、しかし同時に彼女が「待たない」ことは残酷な行為になりうる。

 

あたしが聞いてしまったら、尋ねてしまったら、彼女は絶対に違うって否定して、そんなことはありえないって拒絶して、そしてそのままそれっきり。

認めないで、見逃して、見落として、見過ごして。

なかったことにして、忘れてしまって、失くしてしまう。

だから、あたしは絶対に聞かない。

彼女の気持ちを聞くのはずるいことだ。

自分の気持ちを言うのはずるいことだ。

でも、彼の気持ちを知るのが怖いから。

彼女のせいにしているのが一番ずるい。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)98,99頁より。

 

由比ヶ浜が自分の答えを口にすれば、何かを壊しうる可能性が常に残されている。その顕著な例が雪ノ下に問うた「ゆきのん、それでいい?」だろう。

 

何かを壊して、「諦めて」しまうことを彼女は嫌うのだろう。雪ノ下も八幡も同様に大切で、二人の願いも守りたい彼女は、その意味で「全部欲しい」と願ったのかもしれない。

 

しかしその優しさ故に、強欲さ故にがんじがらめになってしまった。

 

彼女が考えていることも思っていることもちゃんとわかっていて、でも、彼女みたいに諦めたり、譲ったり、拒否したりできなかった。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)359頁より。

 

 

 だから由比ヶ浜結衣は「待つ」ことを選択したし、「待つ」選択しかできなかったのだ。

 

(付記:彼女は「待つ」ことを選択したと言ったが、しかし八幡に対しては「待たない」行動もしている。

家具屋に行ったときの「将来の夢はお嫁さん」発言や、八幡と一緒にプロムを手伝ったこと、ネットカフェで眠ったふりをして頭を八幡の肩に乗せたこと、小町を理由にしてお菓子作りしたこと、プロムでダンスに誘ったこと、その全てが言外に想いを伝えている。

おそらく雪ノ下はどうにかなるとして、八幡を繋ぎ止めたかった、こちらに振り向いてほしかったからなのだろう。その曖昧な態度が最大限の抵抗であったことは、ちゃんと覚えておく必要がある。)

 

 

 

 

 

「お前はそれを待たなくていい」は最低最悪にまちがっている

 

「いつかもっとうまくやれるようになる。こんな言葉や理屈をこねくり回さなくても、ちゃんと伝えられて、ちゃんと受け止められるように、たぶんそのうちなると思う」

まとまりきらない言葉を、ゆっくり慎重に口にする。いずれ、俺が少しはマシな大人の男になれば、こんなことだって躊躇わずに言えるようになるのかもしれない。もっと別の言葉を、違う気持ちをちゃんと伝えられるようになるのかもしれない。

「……けど、お前はそれを待たなくていい」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)340,341頁より。

 

比企谷八幡の宣言は、最低最悪にまちがっている。

曖昧な言葉に委ね、由比ヶ浜結衣の優しさに甘えて彼女を歪めた、おぞましい言葉だと思う。そして最も憎いのが悪意と自覚がないことだ。

 

閑話休題

 

彼の宣言は私には少し煩雑に感じるので、少し空白を補って簡潔な一文にしてみる。

「(雪ノ下と八幡が)うまくやれるようになる=大人になる時間を、(由比ヶ浜は)待たなくていい」

 

この宣言が何を指すのか、読み解いていきたい。

 

前提:「世界でただ一人、この子にだけは嫌われたくない 」という甘え

 

「待たなくていい」の真意を探る前に、一つ前提として入れておく情報がある。

アニメではカットされたが、原作にはこのようなモノローグがある。

 

思い詰めたような眼差しを見て、中途半端な答えは許されていないのだと悟ってしまった。

適当なごまかしも、嘘もお為ごかしも、あってはならない。まぜっかえして煙に巻いて逃げの一手を打ったとしても、それを彼女はきっと笑って許してくれるだろうが、甘えてはいけない。

そんな裏切りをしてはいけないのだ。

俺は世界でただ一人、この子にだけは嫌われたくないから。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)330頁より。太字は引用者による。

 

「嫌われたくない」とはどういうことか。

結論から言えば、「傷つけたくない」ということである。

「嫌われる」「傷」に関しての八幡の態度がわかる箇所を引用してみる。

 

「それでも、知りたいか?」

嫌がられても疎まれても厚かましく思われても、たとえ傷つけることになったとしても、その一線を踏み越えていいのかと、そう問うたつもりだった。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑩』(ガガガ文庫、2014年)178頁より。

(三浦が葉山の文理選択を知りたいと相談に来るシーン)

 

 

似たシーンに平塚先生の「誰かを大切にするということは、その人を傷つける覚悟をすることだよ」が挙げられる。

命題の逆や裏が必ず真になるとは限らないが、一線を踏み越えるのならば嫌われる、傷つけることを覚悟しなくてはならない。なぜなら「傷つけないことなどできない」のだから。

 

そして言うまでもなく八幡にはこの考え方が共有されている。なのになぜ、未だ「嫌われたくない」などと、よりにもよって由比ヶ浜結衣に言うのだろうか。

 

八幡がこう言った理由として挙げられそうなものは、2つしかない。

  1. 由比ヶ浜は眼中になかった
  2. またもやまちがえた

 

しかし”1.由比ヶ浜は眼中になかった”は否定せざるを得ない。八幡が由比ヶ浜を大切に思っていたのは例を挙げるげるまでもなく事実である(はずだ)し、何より『俺ガイル』好きな人間としてその立場を取るわけにはいかないからだ。

 

 

だから、比企谷八幡はまちがえたのだろう。

 

大切に思うからこそ、かけがえのないものだったからこそ、傷つけることを、嫌われることを恐れた。曖昧な答えで濁して、最終的に自分の答えを肯定してくれる彼女の優しさに甘え、心地よさに微睡んだに違いない。

 

そう思わなければ、この1年間は何だったのだと、否定しなくてはいけないから。

 

(八幡を完全に擁護する立場を取るのならば、嫌われたくない=傷つけたくない=大切に思っている=傷つける覚悟をした(「待たなくていい」は傷つけたつもり)、という方程式が立てられそうだ。突拍子もない発想だったが、一応ここに残しておく。)

 

ともかく八幡は由比ヶ浜に対して「嫌われたくない」という考えを持っていたことを、念頭に入れて考察してく。

 

 

 

「待たなくていい」の意味(表)

 

 この「待たなくていい」には、主に2つの意味が込められている。

  1. 不要:雪ノ下と共に成長する選択
  2. 解放:もう見守る必要はない

 

1.不要は単純に「お前のところへは行かない」という解釈でいいだろう。三人一緒に成長するつもりはなく、あくまで雪ノ下と共に成長したい、ということだ。

 

 

そして重要なのが2.解放だ。

これまで由比ヶ浜は「待つ」立場だった。それは「こっちに来て」という意味以外にも、成長を促すような「見守る」存在であったことも示唆している。

 

そも以前から言うように、由比ヶ浜結衣だけは八幡や雪ノ下とは根本的に別の在り方をしている。

由比ヶ浜は既にコミュニケーション力も高く、理屈や理性に囚われず自分の気持ちのまま行動できるし(優しさやずるさに束縛されることはある)、雪ノ下の本当の気持ちもちゃんと理解している。

こと人間関係や感情解読のスペックにおいては、他二人を遥かに凌駕するのだ。

 

故に全てがわかる彼女は、ずるくとも優しい彼女は、常に雪ノ下と八幡の意見を尊重してきた。雪ノ下と八幡が大人になろうとしている=子供であるならば、由比ヶ浜は大人、或いは親のような立場を強いられてきた。

その結果として、由比ヶ浜は自分のお願いを叶えるような行動を取れなくなってしまったことは事実だ。

 

「あの子たちがあんな感じだから、あなたが一番大人にならざるを得ないのよね」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)332頁より。

 

 だから八幡の「待たなくていい」という言葉は、由比ヶ浜結衣の解放になる。二人を見守ることをやめ、「待っていても仕方ない人」になることで、彼女は新たな行動を取ることができる。

 

 

「待たなくていい」の意味(裏)

 

しかし選択とか解放などと言えば聞こえはいいが、別の見方をすれば、その残酷な一面が見えてくる。

 

 八幡は一度も「由比ヶ浜とどうなりたいか」とも口にしていない。ただモノローグで「嫌われたくない」と言ったのみで、この先の関係性には何も言及していない。

「待たなくてもいい」=「待っても仕方ない人」は、つまり「関係性を進めようとしない人」だ。この時点で八幡は由比ヶ浜と関係性の発展を全く断ち切ろうとしているのだ。

しかし「待たなくてもいい」という言葉は「拒絶」の意味を持たない。「こちらからは行くことはないが、来る分には拒まない」という、実質0回答のような答えは、ひどくエゴイズムに映る。

 

嫌われることを、傷つけることを恐れた、だから関係性は何も進まないし、何も終わらない。

それを停滞と呼ばずして、一体なんと呼ぶのだろうか。

 

 

誠実に「全部欲しい」を歪める

由比ヶ浜の「全部欲しい」とは文字通り「全部」だ。三人の関係+恋、或いはその可能性が常に存在している(誰とも付き合ってない)状態を望んでいる。

そして最後に由比ヶ浜が口にした願いは、このようなものだ。

 

「あたしのお願いはね、もうずっと前から決まってるの」

由比ヶ浜はぱっと立ち上がると、くるりと俺に背を向けて、暮れなずむ空を見上げる。

彼女の背中越しに見る夕日の色は、いつか見たあの色とよく似ていた。

静かに揺れる海に、雪が降っていたあの夕日に。

「……全部欲しい」

潮の香りも煌めく雪もないけれど、あの時と同じ、彼女の言葉がある。やがて由比ヶ浜は静かに、けれど大きく息を吐くと、こちらへ振り向いた。

「だから、こんななんでもない放課後にゆきのんがいてほしい。ヒッキーとゆきのんがいるところにあたしもいたいって思う」

夕焼けを背負って、暖かな光と冷たい風の中で、彼女は希うように呟いた。

 

(中略)

 

「大丈夫だ、ちゃんと伝える」

可能な限り、誠実に。(以下略)

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)337,338頁より。太字は引用者による。

 

八幡は由比ヶ浜のお願いを水族館デートと時と同じお願いだと重ねているが、それは少し違う。確かに八幡と雪ノ下がいるところに行きたかったのは事実だが、それは「全部」ではなく「一部」だろう。

そのお願いを「誠実に」と言って、言葉を額面通り受け取って、意図してかせずか彼女の想いには触れない。

かつての雪ノ下の代償行為には遠いだろうが、それでも由比ヶ浜のお願いは歪んでいる。そのことに自覚なく雪ノ下に告げる八幡に、なんとも形容しがたい感情が浮かんでくる。

 

 

 

 

嫌われたくないために、ちゃんと傷つけようとせず、この関係を終わらせようとしなかった。終わらなければ始まらない。

気持ちを言葉にできるのなら言葉にするべきだし、言葉にならないのなら言葉を尽くして形取るべきだ。

彼女の気持に踏み込んで、傷つけて、それがちゃんと始めるために必要なことじゃないのか。

 

擲って壊れてしまうのなら、その程度のものじゃないのか。

馴れ合いは必要ないはずじゃないのか。

 

傷つけようとしないことはかえって傷つけることがわからない。

優しさに甘えないと言いながら甘えていることに気づかない。

誠実であろうと言いながら言葉の表面しかさらっていないことを知らない。

 

もはやまちがいと呼ぶことさえ烏滸がましい。

存在するだけで価値を貶め続ける、どうしようもない偽物だ。

 

 

 

 

 

 終わりに

あまりにも中途半端が過ぎるのでもう一度ちゃんと書き直すつもりではありますが、一旦この記事はこのまま投稿します。ずっと考えていることで視野が狭くなっており、少し間を開けることで視界を広げたい思っています。

 

そしてYukino side(雪ノ下の考察)に関しましても、本当は同時に投稿したかったのですが中途半端なところまでしか終わらなかったので、近日中に頑張って投稿したいと思います。

 

では、拙文ではありましたが考察をお読みいただきありがとうございます。

 

 

 

『俺ガイル完』10話 感想・考察 「雪ノ下陽乃は、ただ本物を希求する。」

 

 

この記事は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』第10話

「颯爽と、平塚静は前を歩く。」

の感想・考察記事です。

 

  

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

比企谷八幡はまたもやまちがえた。

(彼らにとって)正しい答えは、在るべき姿は、「3人の関係を維持すること」だった。なぜならば、それが全員が本当に望んだことだったからだ。

 

<八幡>

 ── 本当は。

冷たくて残酷な、悲しいだけの本物なんて、欲しくはないのだから。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)11頁より。

(*八幡の本物について)

 

<雪ノ下>

「……正直に言うわ」

 

(中略)

 

「楽しかった。初めてだった。一緒に過ごす時間が居心地いいって思えて、嬉しかった……」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)356頁より。

 

由比ヶ浜

だから、ほんとは。

 

── 本物なんて、ほしくなかった。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)99頁より。

 

比企谷八幡は、「きっと慣れる」と嘯いて、一色の提案に「ひどく魅力的、理想的」「それもいいかもしれない」とまで惹かれている。

雪ノ下雪乃は、代償行為という欺瞞の前は、或いは感情的な面では奉仕部を愛おしく思っていた。その証拠に彼との離別の意を込めた別れ際には、彼の袖を掴んで離さない。

 

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由比ヶ浜結衣は、いわずもがな、最初から彼の先導する結末に必死の抵抗をみせていた。

 

「本物」という言葉の前に彼ら彼女らは「ちゃんと終わらせる」という選択をした。

しかし彼らの感情的な面では、誰一人として納得などできていなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 代償行為という欺瞞/偽物

代償行為の定義と欺瞞

『俺ガイル』における「代償行為」の定義は、「ある目標がなんらかの障害によって阻止され達成できなくなった時、これに変わる目標を達成することによってもとの欲求を充足するような行動」となっている。

 

そして八幡はこれを「偽物でもって自身を誤魔化す欺瞞」と述べている。

生徒会選挙編において八幡が奉仕部を守りたい理由を小町に仮託したときも、関わり続けたい気持ちを「仕事」や「お兄ちゃんだから」という義務感に押し込めたときも、それらは彼の中で嘘で虚偽で欺瞞で偽物としてきた。そして気持ちは気持ちのまま、言葉になりようもないものをそのままをぶつけることを、彼は正義と、本物としてきた。

 

故に本当に望んでいるものではないものを望ませたこと=「代償行為」を発生させたことは、つまり本当の望みを歪ませた誰かがまちがっていて、その結末は最低最悪の偽物に違いない、といった理論だ。

 

きっと彼女の言葉に嘘はなくて、ただそれ以前に、答えを出すための前提が歪んでいたのだ。

否、俺が、比企谷八幡が歪めてしまった。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)290頁より。

 

しかもなお悪いのが、その偽物を二人に押し付けたという点だ。

雪ノ下には「代償行為」という欺瞞を発生させ、由比ヶ浜結衣には彼女の願いを捻じ曲げてまで受け入れてもらった。偶然の産物ではなく、予想外の事態ではなく、彼の意図通り、事通りに運んだ結果が偽物だったのだ。

 

 

 

 

代償行為の仕組み

 

私は代償行為の仕組みをこのような形で解釈した。

 

(修学旅行後)

雪ノ下:自立して八幡に守られることをやめ、奉仕部を正しい形にしたい(奉仕部の終わりは考えていない)

由比ヶ浜:3人の関係を維持したい

八幡「曖昧な答えとか、なれ合いの関係はいらない。本物がほしい」

雪ノ下「父の仕事を継ごうとして、(+八幡も奉仕部も)諦めることで全部終わらせて、始め直す」<代償行為=無自覚的>

由比ヶ浜「本当は全部ほしい、でも八幡も雪ノ下も願っているから終わらせなくてはいけない」<本当の願いを飲み込ませる=自覚的>

 

 

本当は両者に言及したいが、しかし由比ヶ浜については別の機会にまとめて考察しようと考えているため、便宜上ここでは割愛することにする。

 

 

 

雪ノ下雪乃の代償行為

 

雪ノ下雪乃はどうしたいか、それは彼女自身も分かっていない。

 

由比ヶ浜さん。あなた、私にどうしたいか聞いてくれたわね。……でも、それがよくわからないの」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)43頁より。

 

ただ修学旅行での海老名さんの一件後、漠然と今の奉仕部が良くない状態であったことは感じたはずだ。自身では解決できないことを八幡に押し付けてる状態が良くないのだと判断した雪ノ下は、生徒会選挙の依頼を機に自ら動き、自らの手で依頼を解決しようとした。

(ここで雪ノ下が奉仕部の存続を意識していたのかは私にはわからなかった。しかし奉仕部を大切に思っていたであろう彼女は全部終わらせるつもりなどなかっただろう。単に現状の問題を解決すべく後先考えず動き出したのか、生徒会長になったあとに何かプランがあったのかのどちらかだと考える。)

 

しかしそれは八幡の誤解、或いはすれ違いによって達成されなかった。自分に自信がない雪ノ下は、由比ヶ浜の取り繕った会話に同調し、八幡が一色を手伝っていることも放置していた。

 

そして海浜総合とのクリスマス合同イベントが限界を迎えた八幡は、奉仕部に依頼をかけ、そこで「本物がほしい」と口にする。

 

当然「本物」という独善的で抽象的な言葉が理解できるはずもない彼女は、とりあえず目先の問題である合同イベントを終わらせや諸々のイベントを消化していくが、どうすれば正しいのかはわからずじまいだった。

 

奉仕部3人での水族館デート後、八幡が馴れ合いや曖昧な関係を望んでいないことだけは確かに理解した。加えて、それが正しいものだとも考えた。

 

かつて抱いていた父の仕事への憧れを覚えていた彼女は、それを目標にし、家業への未練と憎からず思っていたであろう八幡への想いや奉仕部の関係を精算し、正しく終わらせることで実質的に奉仕部を正しいものとして遺そうとした。

 

 

 つまり代償行為とは、「奉仕部を正しい形に戻したい」という欲求を、「正しく終わらせる」という目標で以て擬似的に満たそうとしたことを指すのではないだろうか。

 

 

そして終わりを迎えればまた始まりが来る。

次の始まりこそは、ちゃんと上手く、正しく始めようとしたのだろう。

 

 

 

 

 

 

雪ノ下陽乃という人間

陽乃の裏切り(とも取れる行動)

 

当時、というかアニメ後の再解釈を行うまでの私はひどく困惑していた。意味がわからない、「なんで、今になってそんなことを言うの」と。今まで雪ノ下を応援すると言ってきた陽乃はいつの間にか消えて、突然彼らを破壊するような言葉を放つのだ。正直、裏切られたとさえ思った。

 

それまでの陽乃のスタンスは、本物を希求している(或いはそれを八幡に見出そうとしている)素振りを見せつつも、八幡に対しては「妹の望みに介入しようとするのか」と姉として、或いは諦観した大人としてのスタンスを貫いていた

 

アニメではカットされてしまったが、プロム開場前に雪ノ下母と陽乃が挨拶に来たシーンもまた、そのスタンスを強調していると感じていた。

(※状況は雪ノ下が責任者として対応している中、雪ノ下母が八幡のダミープロム計画を褒めたシーン)

「いや俺がやったわけじゃなくてですね、それもこれも全部……」

娘さんが、と言いかけた時、雪ノ下の母親の後ろにいた陽乃さんの目がすっと細くなる。けして何も言いはしないが、その視線は俺を試しているように思える。

おかげで、それ以上、何も口走らずに済んだ。

 

(中略)

 

「よく我慢したじゃない。……あれでいいんだよ」

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)226~228頁より。

 

 

私は私の中で、雪ノ下陽乃という人間を「本物を求め、志の近い八幡を過去の自身と重ねているものの、あくまで姉・大人としての立場、そしてついに得られなかった者としてその存在を否定しなくてはならない人」と捉えていた。

今となっては勝手な解釈甚だしく、赤面モノだ。心のなかで誰かが「勝手に期待して、勝手に失望するな」と囁いているのがとても胸を締めつける。

 

私の心の内を赤裸々に明かしたところで何の得もないので、どうして陽乃がスタンスを変えたのか考えていく。

 

 

 

あの終わり方を本物だと認めたことはない

 

そもそも陽乃は雪ノ下との離別を促したとはいえ、彼ら彼女らの終わり方について彼女自身が納得したような素振りを見せたことはない。陽乃が雪ノ下の願いを尊重するようなスタンスを取るとき、必ず姉(家族)か大人としての立場を保っている。

 

「でしょ?雪乃ちゃんがそれを選んだのなら、私はそれを応援するの。それが正解でもまちがっていても」

 

(中略)

 

「そうやって諦めて大人になっていくもんよ」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)86,87頁より。太字は引用者による。

 

「わたしのことは関係ないでしょ。今話しているのは雪乃ちゃんのこと。あの子がちゃんと言ったのは、たぶん初めてだからさ。比企谷くんも見守ってあげて」

 

(中略)

 

「ふふっ、またお姉ちゃんしてしまった……」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)88頁より。太字は引用者による。

 

 

「雪乃ちゃんは自立することを選んで、その関係性を終わらせたいんだよ。比企谷くんができることは見守ってあげることなんじゃないのかな」

この上なく優しい声音で、幼子を諭すように、陽乃さんが言った。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)323頁より。太字は引用者による。

 

 

 

妹を案じる姉としてか、先ゆく大人としてか、そういった雪ノ下雪乃と結びつく関係性の中で、その立場に応じた最適解を口にしているにすぎない。雪ノ下雪乃とは独立した雪ノ下陽乃という個人は、その是非について論じたことはない。

 

加えて以前にも、彼らの終わりについて納得していないような態度を取ったことはある。『俺ガイル完』8話で陽乃にダミープロム計画を持ち込んだシーンだ。

 

「それがどんな終わりでもいいの?雪乃ちゃんも、……誰も望まない終わりでも?

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)324頁より。太字は引用者による。

 

この10話以前の私は、この「誰も望まない終わり」というのを、「雪ノ下が自立しようとしているのに、余計に関わることで拗れる」といったニュアンスの、あくまで姉/大人としての陽乃の発言だと解釈していた。

しかし今回の陽乃の発言を鑑みれば、これはそれまでの「雪ノ下自立を見守るべき」という文脈とは全く別物だと考えられる。「誰も望まない終わり」というのは、今の彼らの状況を予見しての言葉で、彼女の本心から漏れ出たものだったのだろう。(ともすれば、陽乃もまた「望んでいない」ということかもしれない。)

 

 

 

姉・大人⇒希求者としての陽乃への変遷

 

先述の通り、陽乃は八幡の選択について、個人の見解を述べたことはない。必ず何らかの立場の上で発言していた。

しかし今回は「雪乃ちゃんは」ではなく「私は」に主語が移っている。つまりこれこそが彼女の本当の気持ちであり、「雪ノ下陽乃」という個人のスタンスなのだ。

 

「言ったでしょ。なんでもいいし、どっちでもいい。家のことなんかどうでもいいの。わたしがやろうが雪乃ちゃんがやろうがどっちだっていい」

先と似たようなことを言われ、俺は思わずため息が出る。それを聞きとがめたのか、陽乃さんはそっと硝子戸の外へと視線をやった。

「……私はただ、納得させてほしいの。どんな決着でもいいから」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)284頁より。

 

強化外骨格として積み上げてきた家業の継承者という立場を考慮に入れず、さんざん見守るように言ってきた雪ノ下の選択すら「どっちだっていい」。大人という立場も、姉という立場も、完全に放棄している。

 

雪ノ下陽乃という人間は、「本物はあるのか」という問いに納得がいくだけの答えがほしい、ただの純粋な希求者なのである。

 

 

もしかしたらプロムを見て心変わりしたのかもしれない。大人/姉として見守るはずだったのに、八幡が自分を騙して偽物を受け入れようとしている様に同族として怒りを覚えたのか、ともすれば嫉妬や悲しみだったのか。いずれにせよ、彼女は最後にそのベールを脱ぎ去った。

 

 

 

加えてこの説の補強として、「彼女の表情の幼さ」が挙げられる。

以前私は『俺ガイル完 5話』の考察記事にて、「大人な由比ヶ浜結衣の表情が幼かった」という旨の考察(というかポエムっぽいもの)を書いた。

 

 

『俺ガイルにおいて最も「大人な」人間は由比ヶ浜結衣である。』

 

そして、由比ヶ浜は最後に本心を吐露する。

 

涙が止まらなければよかった。

 

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「大人」になった由比ヶ浜の最後の泣き顔は、酷く幼く映るである。

 

hirotaki.hatenablog.com

 

4話当時は(気持ちが昂ぶっていたせいで何故か)行間をたっぷり取って思わせぶりな文章を書くという考察にあるまじき文章を書いてしまったが、つまるところこれは「諦め=大人⇔本心=幼さ」という対比に言及したのだ。

 

そして今回も同様、雪ノ下陽乃の表情はかなり幼さが伺える。

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陽乃さんの悔恨まじりの独白は脆く儚く、遠くを見つめる瞳は潤んでいた。いつもの大人らしい余裕も蠱惑的な危うさもまるで感じられず、ともすれば俺より幼く見えた。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)289頁より。

 

この表情を見せたことが、今までの強さを糊塗した強者としての雪ノ下陽乃ではなく、ただ本物を諦めきれず求め続けている純心な雪ノ下陽乃、と考えられるだろう。

 

 

 

 「二十年の価値」という矛盾

 

陽乃が雪ノ下の選択に納得がいかない理由として、「二十年の価値」を挙げている。

 

「こんな結末が、わたしの二十年と同じ価値だなんて、認められないでしょ。もし、本気で譲れって言うならそれに見合うものを見せてほしいのよね」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)273頁より。

 

 

 「こんな結末」という言葉は額面通り「雪ノ下が家業を継ぐこと」ではないと私は考えた。彼女にとって雪ノ下が家業を継ぐことは「どっちだっていい」のだから。

(無論、今までは何もしてこなかったのに突然「家業を継ぎたい」なんて言い出す雪ノ下が神経に触った、ということもあるかもしれないが)

 

となると「こんな結末」とは、「(偽物のまま)八幡たちが離別すること」が真の意味だと考えられる。

 

しかし同時に、彼女は自身の二十年について、こんな告白をしている。

 

 「ちゃんと決着つけないと、ずっと燻るよ。いつまでたっても終わらない。わたしが二十年そうやって騙し騙しやってきたからよくわかる……。そんな偽物みたいな人生を生きてきたの

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)289頁より。太字は引用者による。

 

前者では「私の二十年の価値の重さには見合わない」といったニュアンスの発言をしておきながら、後者ではその価値を「偽物」と、『俺ガイル』において最も最悪な評価をしている。両者は一見矛盾している。

 

しかし『俺ガイル』において「本心」や「気持ち」は最上級の価値を持つ。よって陽乃の本心を基準に考えると、彼女の言葉はこのような形に変化する。

こんな結末が、わたしの(偽物みたいな)二十年と同じ価値だなんて、認められないでしょ。

 

これが何を意味するか、明確なことは何も言えない。

「君はそこまで来ているのに、私の偽物と同じ価値を持っていいはずがない」という八幡へのエールなのか、「偽物だけどそれでもずっと探し続けてきた」という探求者、希求者としてのプライドなのか、彼女の青春を知らない私はその意味を正確に汲み取ることはできない。

 

しかし偽物であるが故に、何よりも本物に焦がれているとも言える。

偽物であるが故に苛烈に求め続けてきたものは、人生は、彼女にとって代え難い確かな価値を持っているのだろう。

 

 


 

 

 終わりに

 

 ここまでお読みいただき本当にありがとうございます。

正直なことを言うと、私自身もこの考察について正しい整理ができていません。故におそらく駄文であるでしょうし、全く見当違いな考察、或いは誰もが気づいているようなことをしたり顔で考察しているしているかもしれません。

しかしまあ、記事にすることで自分の解釈を見つめ直し、より新たな発見、考察にたどり着くために書いています。

極論を言うと私の考察自体は合っていてもまちがっていても構わないのです。最終的に正しい考察になりさえすれば。

 

つまり何が言いたいかというと、皆さんの思っていることを自由にコメントしていただきたいということです。

自分の考察を自虐するのは曲がりなりにも考察している人間としてどうなんだ、と思いますが、間違いなく私の考察はまちがっています。

 ぜひとも皆さんの考察をお聞かせください。この記事のコメントではなくても、私のTwitterのリプでもDMとかでも構いませんので。

 

 

では改めて、お読みいただき本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

(*八幡は本物を望んでいたじゃないか、という反論があるかもしれないが、これについてはほとんど不明。

しかしアニメ2期(9巻)で口にした「本物A」は「醜い自己満足を押しつけ合うことができて、その傲慢さを許容できる関係性が存在するのなら」と関係の継続が意識されているが、アニメ3期(12巻)での「本物B」は「終わり」が特に意識されている。よって私の中では両者を別物として一旦解釈している。)

 

『俺ガイル完』9話 感想・考察 「うまくやる」ことの矛盾

 

 

この記事は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』第9話

「きっと、その香りをかぐたびに、思い出す季節がある。」

の感想・考察記事です。

 

 

 

 

 

 

「うまくやる」ことの矛盾

 

 彼ら彼女らはこの関係性をちゃんと終わらせたあと、「うまくやる」ことをことさらに意識している。その哀惜こそが本物になりきれないお為ごかしの関係性にけじめをつけられた、雪ノ下雪乃が一人で立つことができた証左として受け入れようとしている。

 

上手くいくだろうか、もっと上手に振る舞えるようになるだろうか

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)87頁より。

 

不自然で、下手で、ぎこちないのは自分でも分かっているけれど、それでも、明日からはもっと上手に笑わなければならないのだ。

本当はどんな顔をすればいいのかはわからないけれど、目を合わせていいのかさえ判断つかないけれど、自然に話せる自信も全くないけれど、世間話の話題なんて一つも思いつきはしないけれど、以前の振る舞い方を思い出すこともできないけれど。

それでも。

きっと私は、もっと上手く、ちゃんと上手に、できるようになる。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)92,93頁より。

 (*由比ヶ浜結衣に関しては、「ちゃんと終わらせる」という発言は多かったものの、「うまくやる」と言えるような言えないような発言ばかりであったためここには引用しなかった。理由としては他二人とそもそもの願いの在り方が違うということが挙げられる。)

 

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ところで「うまくやる」という言葉の定義とはどういうものだろうか。

 

「うまくやる」という言葉の初出は、1期7話(4巻)の林間学校だ。

 

(さすがにこのレベルの出典探しは私には不可能で、情報を頂いたのは「pf%俺ガイル考察垢(@HumbertWendel)」様のツイートからということを明記しておきます。あと原作の考察ブログも立ち上げていらっしゃいますので、ぜひそちらにも。ちなみに私の5億倍は濃密な考察で打ちひしがれました。)

(この「ちゃんとやる」という表現は「うまくやる」のことと考えて良いと思われる。キャンプ中に平塚先生が「ちゃんとやる」という表現を用いた箇所は見当たらないため)

mythoughtsonimguileiswrong.web.app「pf%俺ガイル考察垢(@HumbertWendel)」様の考察サイト。

 

 

その初出と思われる発言が以下である。

「比企谷、違うよ。仲良くする必要はない。私はうまくやれと言っているんだ。敵対するわけでも無視するわけでもなく、さらっとビジネスライクに無難にやり過ごす術を身につけたまえ。それが社会に適応するということさ」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。④』(ガガガ文庫、2012年)77頁より。

 

「うまくやる」というのは、言い換えると「大人になる」とも言える。中高生の時代にはよく耳にしていたかもしれない、「もう大人なんだから」と。そして『俺ガイル』において「大人」という表現は「たくさんの何かを諦めた人」として用いられる。

 

そして当時の八幡は平塚先生のこの言葉に拒絶を示す。

 畢竟、人とうまくやるという行為は、自分を騙し、相手を騙し、相手も騙されることを承諾し、自分も相手に騙されることを承認する、その循環連鎖でしかないのだ。

 

(中略)

 

なら、結局それは虚偽と猜疑と欺瞞でしかない。

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。④』(ガガガ文庫、2012年)78,79頁より。

 

当時の尖っていた八幡にとって人と「うまくやる」ことは虚偽と猜疑と欺瞞であったらしい。

 しかし今ではその態度は大きく変わっている。彼らは自ら(望んでというわけではないが)「うまくやろう」としている。雪ノ下ととは言わずもがな、葉山隼人とは「理解はできないけど共感はある」として衝突を躱そうとしているし、相模南(文化祭委員長)とは無視を決め込んでいる。

加えて、彼からこのような言説も見られる。

 「そうならないために俺たちは学ぶべきなんだ。うまくやり抜く賢さをな。このプロムはその訓練にうってつけの場だと言える」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)178頁より。

(「そうならないために」の前は、このままではみ出しものでは、成人式に家族からお金をもらい温かく見送ってもらったは良いものの、結局成人式には行かず適当な場所で夜まで過ごすであろう悲しみを説いている)

 

 この言説は、林間学校での平塚先生の再現と言っていいだろう。虚偽と猜疑と欺瞞と口にしていた彼はいずこ、むしろ肯定的な立場を取っている。八幡もあの頃から少し「大人」にはなっているということだろうか。

(この八幡の態度の変化を非難するつもりは全く無い。以前の彼を肯定も否定もしないが、あの心持ちでは社会に馴染むことは難しいであろうことは容易に想像できる。)

 

以前の彼は「うまくやる」ことを非とし、現在の彼はそれを是としている。人の心持ちなど容易に変化するとはわかっているものの、比企谷八幡の本物/偽物に対するコンプレックスは相当なものであり、加えてそれが『俺ガイル』の根幹を成すわけで、少し注意深く見る必要がある。今のところ彼の考え方が変化したという自白はなされていない。

果たして、この「うまくやる」という矛盾は、今後どう作用してくるのだろうか。

 

 <*ちなみにダミープロム計画成功後に八幡、由比ヶ浜、遊戯部(with.材木座)、葉山グループという絶望的に相容れないであろうメンバーでプロム成功の打ち上げがカラオケで行われたのだが、そこでなんと遊戯部と葉山グループが奇跡的にマッチし盛り上がりを見せることになる。その光景を見て八幡は「マイルドヤンキーとイキリオタクは精神構造がだいたい同じなため、きっかけがあれば『うまくいく』」と評した。これもまた、「うまくやる」という一例として登場したのかもしれない。

そして同時にその喧騒をよそに陽乃の「だから君は……」という言葉を思い出す。解説するとシチュエーションから長々と話す必要性があり冗長になるので、詳しくは各自原作を参照していただきたい。>

 

 

 

 

由比ヶ浜結衣のお願い

「できる範囲で」というフラグ

 

ヒッキー、いつもそうじゃん。できないのに、できる範囲でって言って、それで、結局なんとかするの。すっごい無理して。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)49頁より。

「できる範囲」でという言葉はある意味危険なフラグでもある文化祭で雪ノ下を助けるために(6巻)、修学旅行で戸部の告白を阻止するために、生徒会選挙で雪ノ下を当選させないために、できる範囲のことをやってきた結果が現状である。その結果の善し悪しは棚上げにしておくとしても、そうして傷を負う八幡の姿を見て心を痛めたのが彼女だ。

加えて「できる範囲」という言葉は、八幡語に言い換えると「できてしまうのなら全て=目的の達成を第一優先とする」ともなるわけで、つまりお願いされた身である八幡からは「由比ヶ浜に対しての主体性」が欠如している。それを八幡が望んでいるとはいえ、いつでもその願いがちらつくであろう彼女にとって酷なことに違いない。

 

 

 

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 ちなみにお気づきの方もいるかもしれないが、由比ヶ浜の指摘後であるのに、めぐり先輩の「またみんなで楽しいことやってね」という言葉に対して八幡は「可能な範囲で」と悪びれもせず口にする。これは特に考察されるべきものではないだろう、単純にアレである。

 

 

 

 

 

堂々巡りのお願い

 

雪ノ下からのお願いで、八幡は由比ヶ浜のお願いを叶えると約束した。そして当の由比ヶ浜のお願いは「八幡のお願いを叶える」だった。

言葉を額面通り受け取るのなら、これは千日手状態になっている。

そも、俺は雪ノ下雪乃の願いを叶えるために、こうしている。

雪ノ下の願いは由比ヶ浜の願いを叶えることだ。だが、その由比ヶ浜は俺の願いを叶えようと言う。これではまわりまわって、堂々巡りでいつまで経っても終わらない。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)52頁より。

 

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由比ヶ浜結衣は確かにまちがえないが、それ以前にこの構図を理解していないなんてことはありえないだろう。つまり、お願いのどこかがまちがっている。

 

まちがっていると考えられるのは、3つのお願いだ。

  1. 比企谷八幡のお願い雪ノ下雪乃のお願い
  2. 雪ノ下雪乃のお願い由比ヶ浜結衣のお願い
  3. 由比ヶ浜結衣のお願い比企谷八幡のお願い

 

どれが本当でどれが嘘かなど全くわからないが、とりあえず妄想の範疇で考察する。

 

まず3. 由比ヶ浜結衣のお願いはまちがっていそうだ。

第一に、彼女が「簡単なことだけお願いしよう」と言ってることより、簡単なこと以外のお願いも存在する。

そして第二に、彼女のお願いはずっと提示され続けてきた。「全部ほしい」が変わらず彼女の最難関の願いだと考えるのが自然だろう。

 

ではお願いが最初から決まっていると仮定して、なぜ彼女はそれを八幡にお願いしないのか。

ここでとある一節に注目したい。

「でしょ?だから考えといてよ。あたしのお願いを叶えてる間に。あたしも考えておくから」

 

(中略)

 

「……それで、ちゃんと言う。……だからちゃんと聞かせて。ヒッキーがどうしたいか」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』(ガガガ文庫、2019年)52頁より。

 

この言い方は妙に含みがある。八幡は既に「由比ヶ浜のお願いを叶える」と言っているにも関わらず「ちゃんと聞かせて」と問い直している。それにアニメでは声音に戸惑いはあまり感じられない、むしろ「もう決めている」という雰囲気さえ感じられる。或いは、「待っている」と言っているような。

このことより由比ヶ浜は八幡のお願いに懐疑的であるのかもしれない。彼女が正しいのならば、2. 比企谷八幡のお願いもまちがっていると言えるだろう。

 

1. 雪ノ下雪乃のお願いに関しては、どうなのかさっぱりわからない。しかし由比ヶ浜結衣に対する思いとあの涙は、決して嘘から出たものではないと私は思う。

 

 

いずれにしろ、時を待ち何かが風化するのを待つか、再度「お願い」を問い直す必要がある。今後も彼らの「お願い=感情」について注目してく必要がありそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

『俺ガイル完』5話 感想・考察 比企谷八幡は、「責任」に「覚悟」を込める。

 

 

この記事は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』第5話

「しみじみと、平塚静はいつかの昔を懐かしむ。」

の感想・考察記事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「責任」という言葉の真意。

 

なぜ雪ノ下を助けたい理由が2つあるのか

 

今回新たに登場した、比企谷八幡雪ノ下雪乃を助ける理由は「責任がある」というものだった。

しかし第4話(原作12巻)にて平塚先生に理由を求められた八幡が口にした言葉は「助けるって約束したから」(以降「助ける約束」と呼称する)だ。私は前回の記事でそれを「感情が理由であると規定したもの」という評価をしたのだが、今回の「責任」という言葉にそれが当てはまるかと問われれば、一見するとなかなか厳しいものがあるだろう。

 

hirotaki.hatenablog.com

(↑前回の記事。この記事の内容を前提に考察しているところもあるので、よければちらっとでも覗いてみてください。)

 

 

 

「責任」という言葉の定義は以下のようなものである。

 

責任(せきにん、英: responsibility/liability)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたこと の原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。何かが起きた時、それに対して応答、対処する義務の事。

 

(中略)

 

日本における「責任」の様々な用法

従来より、日本社会においては「責任」という概念・語がよく理解されておらず、本来のresponsibilityという意味とはかなり離れてしまって[要出典義務という語・概念と混同してしまったり、義務に違反した場合に罰を負う、という意味で誤用してしまう人も多い。あるいは、もっぱらリスク負担することにのみ短絡させている場合もある(部分的には重なるが、同一ではない概念である)。

 

 責任 - Wikipedia 太字は引用者による。

 

 どうやら原義である”responsibility”と日本で浸透している「責任」の意味が違うものであるらしいと今知ったのだが、とりあえず『俺ガイル』作中に出てくる「責任」の意味は日本で一般的に使われている、「義務」という言葉と類似している日本語の「責任」と仮定しておく。

 そして「義務」とは感情と対極にある言葉でもある。『俺ガイル』においては「仕事」という言葉もまた感情と対極にあるような使われ方をしている。

 

こうして考えてみると、「助ける約束」と「責任がある」(或いは義務、仕事)は大きく矛盾しているように見える。また感情を排した論理のみの理由をでっちあげたのかと、そう疑ってしまうのも頷けない話ではない。

 

しかし一つずつ丁寧に考えていくと、「責任」という言葉が本来言わんとすることと、とある重要な言葉と繋がっていることが理解できるのである。

では「責任」の真意と重要な言葉について、順を追って考察していく。

 

 

 

 

「責任」という言葉は適切ではない

 

考察する前にまず押さえておきたい前提がある。そもそも「責任がある」も、そして「助ける約束」でさえも、八幡が雪ノ下を助けたい理由そのものではないということだ。それは八幡のモノローグで幾度と提示されてきた。

 

平塚先生に対して言った「助ける約束」と一色に対して言った「責任がある」は、シチュエーションが酷似している。

 

言葉になんて、なりようがない。大事なことだから言わないんだ。ちゃんと考えて、手順を踏んで、間違えないように、ちゃんと……先生だってそうでしょ」

あんた離任のこと言わなかったじゃねえか。それは大事なことじゃないのか。そう続けそうだった。絶対言うまいと奥歯を嚙み締めたのに、声に出してしまっているのが自分でもわかる。

『……比企谷ごめんね。それでも私はずっと待つよ。……だから言葉にしてくれ。

 

(中略)

 

でも、それだけは言いたくない。一番かっこ悪い理由だから。だけど、言わないと進ませてくれないんだ、この先生は。そうやって俺に言い訳させてくれているのを知っている。

だから額を押さえ、本当に嫌なんだと大きく息を吐いて伝えてから、小さい声で口にした。

「……いつか助けるって約束したから」

頼まれたからなんて、そんな普通に当たり前すぎる理由で、ロジックもリリックもない言葉で、陳腐極まる使い古された言い回しで、あいつを助けるなんて、本当に嫌でたまらない。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)352,353頁より。太字は引用者による。

 

「ちゃんと答えてください」

無理やり首を向けられて、真正面から一色と向かい合う。よほど強く握りしめられているのか、ネクタイには皺が寄り、一式の小さな手はかすかに震えていた。

 

(中略)

 

「ほんとにいろいろなんだよ……。それをうまく説明できる気がしない

「それでもいいです」

けれど、一色は言葉を弄することも許さず、一言に切って捨て、すぐさま言い返してきた。ここで何か答えなければ納得しない雰囲気だ。

だが何を言っても腑に落ちないだろう。

俺の抱く感情も感傷も、そもそも言葉になどしようがなく、だからこそ、どんな形容もしうる厄介極まりないもので、きっとどう伝えたところで分かち合える類のものではない。そんな不透明で不定形、不鮮明なものを杓子定規に既存の言葉に当てはめてしまえば、その端から劣化していずれ大きなまちがいを生む。なにより、たった一言で済まされてしまうのが気に入らない。

 

(中略)

 

うまく言えなくても、まとまっていなくても、それでもいいから答えを示せと、彼女は言うのだ。

だから真摯に誠実に、望まれた言葉と違うのを重々承知で、重苦しいため息と一緒に少しずつ吐き出した。

「……責任がある」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)62,63頁より。太字は引用者による。

 

少し文章が長く対応する場所が見えづらいので、この2つのシチュエーションにおける共通項を箇条書きにまとめてみる。

 

  • 言葉になんてならない、できない
  • ありふれた言葉に規定されたくない、言葉にしたくもない
  • それでも言葉にしなくてはならない(言葉にしてほしい)

 

これらの共通項に見覚えはないだろうか。そう、PVや予告、第1話冒頭などでずっと八幡が口にしてきたことだ。

 

言わなければわからない、言ったとしても伝わらない。

だから、その答えを口にすべきだ。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)11頁より。

 

言葉になることはなく、無理やり言葉にしたところで伝わっているかわからないままで、挙げ句言葉にしたことでずれたり壊れたりすることさえある。

それでも、言葉にしなければ始まらない。言葉にしなければどうなるのかは散々味わってきて、その偽物を終わらせるために言葉にしなくてはならないのだ。

 

故に、「助ける約束」も「責任がある」も、八幡が抱いているものがすべて反映されているわけではない。どちらも適切ではないのだ。

しかしそのどちらもが全く見当違いのものではなく、八幡の「何か」を捉えているのも事実ではあるだろう。だからこそあえて一色には平塚先生に伝えたものとは別の言葉を用いたのかもしれない。私は前者を「感情が起因であることを示している」と考えた。そして後者にも確実に八幡の思いが見つかるはずである。

 

(八幡は平塚先生との会話中にモノローグで「二度は言わない」と言っているので、一色のときに別の表現を用いたのはそれが直接的な理由ではある)

 

 

 

 

これまでの「責任」

 

『俺ガイル』において「責任」といえば、やはり一色いろはのあのシーンが印象的だろう。葉山にフられた一色が帰りの電車で八幡に対して放った「責任、とってくださいね」という台詞。

 

本話でもまた、一色は「責任」という言葉を用いる。

 

ほんとにほんとに、ちゃんと責任とってほしい。

だいたい、今までだって責任とってもらってないのに。

それなのに、責任だなんて言い訳みたいに軽々しく言わないでほしい。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)91頁より。

 

これと対比させてみたいのが、八幡が海浜総合高校との合同イベントを手伝ってほしいという依頼(原作9巻、2期8話)をしたときの会話の一節で用いられた「責任」である。

「あなた一人の責任でそうなっているのなら、あなた一人で解決すべき問題でしょう」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』(ガガガ文庫、2014年)247頁より。

 

この2つの「責任」では、少し意味が異なっているように思う。

後者は先程紹介した、日本で一般的に使われる、「義務」と混同された方の「責任」だと考えられるが、前者は「そうでなくてはならない」というようなニュアンスとは違うような気がする。加えて前者には「とる」という動詞があり、自主性みたいなものも内包している。

簡潔に言うならば、前者のものは「とらされる」のではなく「とる」。そういう自身の内に引き受けるような意味での「責任」という言葉の使われ方をしていると考えられるだろう。

 

そして八幡の言った「責任」もまた、一色のものと近い。

 

 

 

 

 「責任」の真意は「覚悟」

 

 「責任」の真意はこの一節にこそある。

 

「それで、……どういう結果になったとしても、その責任をちゃんととりたい」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)82頁より。

 

比企谷八幡は責任を望んでいるのだ。手放して諦めるのではなく、結果を自身で引き受けたいのだ。それがたとえ、残酷なものだったとしても。

 

そしてこの回答は、陽乃からの問の返答でもある。

 

「プロムが実現したら、母は雪乃ちゃんへの認識を多少は改めるかもしれない。もちろん雪乃ちゃん自身の力やれば、だけどね。……それに手を出す意味、分かってる?」

 

(中略)

 

重い問いかけだった。それはつまるところ、彼女の将来に、人生に、責を負うことができるのかと、そう問われた気がした。そんな問いに軽々しく答えられるはずがない。俺たちは後先考えずに動けるほど幼くはないし、全てを受け止めきれるほど大人ではないのだ。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)337,338頁より。太字は引用者による。

 

 八幡の行動で雪ノ下の人生を左右しかねないと、そう釘を刺されたのである。ここで手を出してしまえば父の後継ぎの話はもちろん、雪ノ下がせめてこれだけはと口にした「諦めたい」という願いでさえ壊してしまうかもしれないだろう。その「責任」を負うことができるかと、陽乃は問う。

 

そして八幡は、「責任」をとりたいと口にした。どういう結果になったとしても、つまりそれが彼女の願いを壊してしまうかもしれないと分かった上で、その結果=人生に「責任」を求めたのである。

 

「人生に責任をとりたい」とは、つまり「関わり続ける」ということでもあるだろう。

 

「……少なくとも、関わらないって選択肢はないと思います」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』(ガガガ文庫、2018年)36頁より。

 

「人生」「関わる」という言葉といえば、かつて平塚先生が行き詰まった八幡に対して説いた人生論を思い出すかもしれない。それこそが、この「責任」の本質なのだ。

 

「でもね比企谷、傷つけないなんてことはできないんだ。人間、存在するだけで無自覚に誰かを傷つけるものさ。生きていても、死んでいても、ずっと傷つける。関われば傷つけるし、関わらないようにしてもそのことが傷つけるかもしれない……」

 

(中略)

 

「けれど、どうでもいい相手なら傷つけたことにすら気づかない。必要なのは自覚だ。大切に思うからこそ、傷つけてしまったと感じるんだ」

 

(中略)

 

「誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだよ」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』(ガガガ文庫、2014年)232頁より。

 

 「覚悟」である。人生に「責任」を持つということは、その人をずっと傷つけ続ける「覚悟」をすることなのだ。「責任」の真意は、ここにある。

 

 

 

こうして比企谷八幡は、「助けるって約束したから」と感情を理由に行動し、「責任がある」と傷つける「覚悟」をした。ならば、あとはその先に進むだけである。

 

 

願わくば、彼ら彼女らの未来に「本物」がありますように。

 

 

 

 

『俺ガイル完』4話 感想・考察 由比ヶ浜結衣は、未来に何を見たのか。

 

  

この記事は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』第4話

「ふと、由比ヶ浜結衣は未来に思いを馳せる。」

の感想・考察記事です。

 

 

 

 

 

 

雪ノ下母の「怖さ」とは。

順調に進んでいたはずのプロム計画において大きな壁として立ちはだかったのが、雪ノ下母という存在である。彼女の周囲からの評価は、おおよそ以下のものである。

 

  • 八幡;諭すような物言いで、言外に示すような、含めた言い方が多い。感覚的に陽乃さんに似ている。
  • 陽乃;何でも決めて従わせようとする人。自分より怖い。

 

陽乃の「自分より怖い」という言葉はさておき、それ以外の評価については彼女の人物像そのままという印象が強い。実際に本話において対面した八幡の彼女に対する評価は、「相手の意見を聞くふりをしつつ、最初に用意していた罠=結論に半ば強引に持っていく」というものであった(果たしてこれが「怖い」と評価されるものなのかと言われると、少し言い淀んでしまうところはあるが)。

 

ここで、実際に雪ノ下母がどのように結論へ持ち込むのか、保護者会/雪ノ下母側の主張(「青」)とそれに対する生徒会側の反論(赤)の流れをざっくりと紹介する。(なお原作において議論はアニメより数ターン多いので、原作での発言から引用する。)

 

  • 「健全ではない、高校生らしくはない」←保護者会、学校側で防止する旨の内諾を得ている
  • SNSでの特定など、派手な催しに際して充分なインターネットとの付き合い方に疑問がある」←可能性の話をしたらきりがない
  • 「否定的な意見がある中で無理にやる必要はない。謝恩会は保護者や先生方、地域の方々にとっても大切なイベント。これまでのもので不満がなかったのならそのままでも構わないのではないか」←私達未来の卒業生にも提案する権利はある
  • SNSでは肯定的な意見がほとんど←「SNSには表れない意見に耳を傾ける必要もある」

 

 

主張の流れを見て私がまず思ったのは、「議論の中身が見えてこない」ということだろう。そも何を問題視して何を解決しなくてはならないのか、議論の核となる部分が曖昧になっている。意見にあまり一貫性を感じない。

それが何故なのかといえば、「結論ありきで発言している」という条件を与えてみれば納得できる。つまるところ意見というのは「プロム中止」それのみであって、理由についてはそれに誘導するための即席モノでしかないのである。だからこそ随時切り口を変えられる「カウンタースタイル」を好むのだろう。実際保護者会側の主張はどれもプロムを中止させるだけの材料にはならないが、しかし保護者会に協力の意思が見られなければその問題点を解決するのは難しくなる。板挟みになる学校側からすれば、安定を取ってプロム中止の対応になるのも頷けなくはない。

 

先程”これが「怖い」と評価できるものなのか”という発言をしたが、実際この行為自体は対象の恐怖を煽るというよりは単に対処が面倒なだけのように感じてしまう。正に言い出したらきりのないような事ばかりで、クレーマーに似た発言でしかない。

あくまで私の推論だが、母という立場、保護者会の代表、知事の妻など、その発言が権威(立場)に紐付いている厄介さこそが肝要であり、その理不尽さを以て「怖い」と捉えることができるかもしれない。少々強引ではあるが。

 

 

 余談;雪ノ下母の娘への対応の違い

雪ノ下母の娘への対応の差は顕著に現れている。陽乃と相対するときは厳然さを以て注意をするのだが、雪乃と相対するときは柔和な表情で宥めるような声で話す。つまり大人として扱うのか、子供として扱うかの差である。この対応の差こそが、立場に縛られた陽乃の気に入らないところであり、同時に雪ノ下雪乃が自分を認めてくれていないと感じるところなのだろう。

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アニメでは表情を大きく変え、その対応の差がわかりやすいようになっている。

 

 

 

 

 

共依存比企谷八幡の感情。

 

共依存とは

これまで奉仕部の関係性を規定する言葉はなかった、というよりは彼ら彼女らによって敢えて避けられてきたのだが、邪智暴君の陽乃が暴いてしまったことで、その関係性にひとつの「ものさし」ができてしまった。それが『共依存』という概念である。

 

共依存(きょういそん、きょういぞん、英語: Co-dependency)、嗜癖(きょうしへき、Co-addiction)とは、自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存しており、その人間関係に囚われている関係への嗜癖状態(アディクション)を指す。すなわち「人を世話・介護することへの愛情=依存」「愛情という名の支配=自己満足」である。共依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平穏を保とうとする

 

引用:共依存 - Wikipedia

 

少し難解な語彙・表現が多いが、普通の依存とは異なるのが、その依存性が一方的なものではなく、双方向性を持つという点だ。読んで字の如く「共に依存する」という状態。依存している、または依存されている状態を意識的か無意識的か肯定し、そこに自身の価値を見出すというのは、まあ一般的には健全ではない。

 

ではここで、奉仕部がいかにして共依存的であるか、その構造を私なりに示してみる。

 

  1. 雪ノ下→八幡+由比ヶ浜;目的の達成のため、2人に助けてもらってばかりいる(一人で立てない)
  2. 八幡→雪ノ下;頼られたら断れず、あまつさえそれを自分の存在意義の確認に利用する(お兄ちゃん的)
  3. 八幡→由比ヶ浜;問題が発生すれば、真っ先に頼る相手<仮定>
  4. 由比ヶ浜→八幡;「八幡→雪ノ下」とほぼ同じ<仮定>
  5. 由比ヶ浜→雪ノ下;雪ノ下の思いをすべて理解しつつ、彼女の決定に身を委ねた

 

3,4については根拠が足りず、 5については後述するので、まずは1,2を中心的に見ていこうと思う。

 

 

比企谷八幡の「心残り」

特に今回八幡が酷くショックを受けたのが2の「八幡→雪ノ下」の方向性で、アニメでは大幅にカットされていたもの原作のモノローグではその落ち込み具合が強く描写されている。

 

何度も教えてもらっていた。甘やかしている自覚がないのかと指摘された。頼られて嬉しそうだと言われていた。その都度、お兄ちゃん気質だの仕事だから仕方ないだのと、嘯いて。

羞恥と自己嫌悪で吐き気がする。なんと醜く、浅ましいのだ。孤高を気取りながら、頼みにされれば満更でもなく、あまつさえ愉悦を感じ、それをして自身の存在意義の補強に当てるなどおぞましいにも程がある。無意識に頼られる快感を覚え、卑しくもそれを求め、そして求められなかったことを一抹の寂しさなどと偽る。その品性の下劣さ、醜悪極まる。

なにより自己批判することで、自分に言い訳をしていることが心底気持ち悪い。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)347頁より。

 

葉山から、陽乃から、一色いろはから忠告を受けていた。「『お兄ちゃん』するのか」と。

 

hirotaki.hatenablog.com(↑こちらでも八幡の『お兄ちゃん』に対する考察をしている。よければご参照を。)

 

 

確かに高校2年の春の八幡からすれば、この関係性は醜いものでしかないだろう。常に「ぼっち」として孤高を極め、”寄る辺がなくともその足で立ち続ける”(と思い込んでいた)雪ノ下に憧れていた彼の姿は見る影もない。

しかしそれは彼女たちを知る前の比企谷八幡である。今は知っていることもあり、知らないことがあることも知っている。移ろう関係性の中で、価値観は常に更新される。

 

そしてその新たな価値観の中には、平塚先生の言葉も含まれているだろう。

 

計算できずに残った答え、それが人の気持ちというものだよ」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』(ガガガ文庫、2014年)229頁より。

 

理由を絞り出して、言葉になりようもないものを計算し尽くして、そうして八幡は、残った答えを口にするのである。

 

共依存は仕組みだ。気持ちじゃない。言い訳にはなっても、理由にはなってくれない。

そこまで全部考えて、出し尽くして、絞り出して、心に残っているのは心残りだけだ。

でも、それだけは言いたくない。一番かっこ悪い理由だから。だけど、言わないと進ませてくれないんだこの先生は。そうやって俺に言い訳させてくれるのを知っている。

だから、額を押さえ、本当に嫌なんだと大きく息を吐いて伝えてから、小さい声で口にした。

「……いつか、助けるって約束したから」

頼まれたからなんて、そんな普通に当たり前すぎる理由で、ロジックもリリックもない言葉で、陳腐極まる使い古された言い回しで、あいつを助けるなんて、本当に嫌でたまらない。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)353,354頁より。太字は引用者による

 

全部考えて、出し尽くして、絞り出して残った「心残り」こそ、平塚先生の言った「感情」にほかならない。計算し尽くした果てに、感情という答えを導いたのである。

いつだって問題を設定して必要な理由を求めて、そうやっていくつもの問題を解消してきた八幡にとって、「感情が理由だ」と言葉にする行為は初めてなのである。

 

一見「助ける」という言葉は直接的ではないと感じるかもしれない。しかしそこには理由も意思も、全てが八幡自身の中に存在するのである。「誰かのグループの関係性を壊さないため」や「小町のため」ではなく、比企谷八幡の中にあるものだけで行動するのである。

 

確かにスマートではないだろう。感情を排して理論に沿って行動したほうが合理性があるし、自分を納得させやすい。必要なことだからと、これが一番最短なのだと、そうやって言い訳するのはとても楽なのかもしれない。でもそれは「本物」ではないと、平塚先生は、八幡は、そう感じているのだ。

 

 

俺ガイルにおいて、「言葉」は大きな意味を持つ。素直でない彼ら彼女らはいつも遠回しな表現を好むが、特に核心的な部分において直接的な表現はほとんど用いられない。それは彼ら彼女らが「何か」を規定することを恐れ、避けてきたからだ。

 

ついに比企谷八幡は規定した。ならば、あとは彼の行動を見守るだけである。

 

 

 

 

 

由比ヶ浜結衣は、未来に何を見たのか。

 

『俺ガイルにおいて最も大人な人間は由比ヶ浜結衣である。』

 

奉仕部が現在も奉仕部たり得るのは、間違いなく由比ヶ浜結衣の存在によるものだろう。孤高を貫いていた(貫こうとしていた)雪ノ下に初めて踏み込んだ人間であり、八幡が折れそうなときにはそばにいて、もう一歩踏み出すのだと背中を押した。例え欺瞞と言われても、壊れそうな奉仕部をギリギリで繋ぎ止めていたのは彼女である。ふらふらとどこかに行ってしまいそうな雪ノ下と八幡において、彼女は大きな精神的支柱となっていただろう。

 

加えて、俺ガイルにおいて最も敏い人間でもある。

かつて奉仕部での水族館デートの際、雪ノ下に問いかけた由比ヶ浜を八幡はこう評価していた。

由比ヶ浜はたぶんまちがえない。彼女だけはずっと、正しい答えを見ていた気がする。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑪』(ガガガ文庫、2015年)314頁より。

 

そして陽乃が「共依存」と言い放った八幡との会話時、原作では陽乃が「本当は由比ヶ浜と一緒に帰るつもりだったけど、逃げられてしまった」と吐露するシーンがあるのだが、そこで彼女は由比ヶ浜という人間についてこう語るのである。

 

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「本当に勘がいい子だよ。全部わかってるんだもん。雪乃ちゃんの考えも、本音も、ぜーんぶ」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)342頁より。

 

雪ノ下陽乃をしてそう言わしめるのだから、彼女はきっと全てを知っている。論理ではなく感情を理解する彼女であるからこそ、理論を最優先する八幡が遠回りした場所に先にたどり着いたのだ。

 

 

しかし、由比ヶ浜結衣は最初から完全に大人であったわけではない。

陽乃曰く、「大人になるということは、たくさんの何かを諦めること」だと言う。それが俺ガイル世界における「大人」と定義するならば、 少なくとも水族館デートのときの由比ヶ浜は、大人ではなかった。

 

「あたしが勝ったら全部貰う。ずるいかもしんないけど……。それしか思いつかないんだ……。ずっと、このままでいたいなって思うの」

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑪』(ガガガ文庫、2015年)313頁より。

 

由比ヶ浜結衣は、何一つ諦めようとしなかったのである。奉仕部の関係性から自分の想いまで、何一つ手放せなかったのである。あえて悪い表現を用いるなら「駄々をこねる子供」のようでもあるだろうか。

 

 

 そんな由比ヶ浜は今回、八幡との買い物にてふと未来を想像することになる。

 

例えばそれは家族連れの客を見たとき。もしも、好きな人とその子供で買い物に出かけたりするのだろうかと。

 

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(原作では由比ヶ浜のこのような描写は一切ないので、アニメオリジナルの描写だろう)

 

例えば何気ない日常の会話の中で。生活感のある1K賃貸のショールームで、調理道具を持ってキッチンに立ってみたりして、小さい頃の夢であった「お嫁さん」になった姿を想像してみる。

 

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(1Kなので一人暮らし用の部屋なのだが、細かいことは気にしない)

 

 自分の好きな人に一緒に買い物に誘われて、舞い上がって、期間限定のマッ缶自販機に興奮している姿を愛おしく思って、一緒に家具コーナーを覗いてみたりして。そうして、その先を夢見る。年頃の少女にありふれた、幸せな「未来に思いを馳せる」のである。

 

 

しかし、それはどうしようもなく叶わないのだと、敵わないのだと、悟ることになる。

プロムが中止目前になって八幡が口にした言葉に、由比ヶ浜は涙する。八幡は「大丈夫か」と問うてくるが、由比ヶ浜はこう返す。

「え、あ、なんか安心したら涙出てきた。びっくりしたー……」

 

「やー、わからないことだらけだったから……。なんかひとつでもわかるとほんと安心する。むしろ今だいじょぶになった感じ」

 

 渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)354,355頁より。太字は引用者による

 

この「わかる」とは何を指すのか。それは八幡の想いにほかならない。

かつて由比ヶ浜は雪ノ下家にあった2S写真で、雪ノ下の想いを再確認した。

そして今回、由比ヶ浜は八幡の想いを知った。

曖昧模糊とした関係性に、線がつながったのである。他はよくわからなかったとしても、そのひとつだけはわかってしまったのだ。

 

八幡が走り去ったあとの由比ヶ浜のモノローグには、こんな節がある。

 

彼女が考えていることも思っていることもちゃんとわかっていて、でも、彼女みたいに諦めたり、譲ったり、拒否したりできなかった。

すごく簡単なことのはずなのに、あたしは何もできなかった。全部、彼女のせいにしてそうしなかった。

彼女が彼に依存したみたいに、あたしは彼女に依存したの。

 

 渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)359頁より。太字は引用者による

 

これこそが先述の”5.由比ヶ浜→雪ノ下;雪ノ下の思いをすべて理解しつつ、彼女の決定に身を委ねた”という共依存性なのである。

雪ノ下の自立は八幡と雪ノ下の関係性を断つことだとわかっていて、しかもそれは雪ノ下の思いとは裏腹であることも理解して、あえて口に出さなかった。それが自分にとって都合が良かったから。

 

しかし、八幡が口にしたことで、思いは規定されてしまった。言葉に出さないことで曖昧になっていたものが、一気に形作った。

だからこそ、今度は自分が諦めた。涙を止めて、思いに栓をして、笑顔で八幡を見送った。

 

そうして由比ヶ浜結衣は、雪ノ下と八幡の「未来に思いを馳せる」のである。

 

 

 

 

『俺ガイルにおいて最も「大人な」人間は由比ヶ浜結衣である。』

 

そして、由比ヶ浜は最後に本心を吐露する。

 

涙が止まらなければよかった。

 

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「大人」になった由比ヶ浜の最後の泣き顔は、酷く幼く映るである。

 

 

 

 

 

『俺ガイル完』2話 感想・考察 理由がなければ、行動できない

 この記事は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』第2話

「今日まで、その鍵には一度も触れたことがない。」

の感想・考察記事です。

 

 

 

 

 

理由がなくては、行動できない

動く「理由」と「問題」を探して

八幡は何かを実行する際、ひどく行動原理を守る傾向にある。もっと簡潔に言うならば、もっともらしい「理由」を見つけられなければ動けないということだ。

 

その傾向が見られる代表的なものをいくつか羅列する。

  • 文化祭実行委員:雪ノ下の負担を、ひいては雪ノ下の孤独な頑張りを否定されないため、自ら悪役になる
  • 文化祭:相模を連れ戻し文化祭を無事終了させるため、相模を罵り葉山になだめてもらう
  • 修学旅行:葉山グループの関係性を維持するため、告白に割って入り有耶無耶にする
  • 生徒会選挙:小町の願う雪ノ下と由比ヶ浜の奉仕部残留を叶えるため、一色を生徒会長に当選させる

 

これら以外にも細かいエピソードにこの傾向は表れるが、最も顕著であるのはやはり生徒会選挙編だろう。実際、彼のモノローグで何度も伝えられている。

以下は八幡が小町に理由をもらう前のシーンでの一節。

 

つまるところ、それは前提条件となる「理由」がないからだ。

動くだけの、行動を起こすだけの理由が。その問題を問題として捉える理由が。

起因となる理由がないから、問題が成立しない。

一色の件についてもすでに雪ノ下と由比ヶ浜が立候補することでほぼ決まってしまった。あちらのほうが確実性が高い上策だといえる。

なら、俺の出番はない。

だから、一色がらみで彼女たちと対立する理由はもうないのだ。

 

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑧』(ガガガ文庫、2013年)240頁より。

 

他にも生徒会選挙編では再三にわたって「理由」「問題」という言葉が登場する。そもそも問題に対して(脳内)理論的に自己完結出来ているのに繰り返し問題提起をしているのは間違いなく感情に拠るものなのだが、彼は曖昧な感情を起因として行動することが苦手なのだ。

一応その後平塚先生からの助言により「本物が欲しい」という感情のまま行動を起こすことが出来、一見その悪癖は治ったように思えるが、実は現在においてもその行動原理は存在したままだと感じられるシーンが本話に存在した。

一色がプロム計画を奉仕部に持ち込み、雪ノ下が計画の手伝いを承諾した際、八幡は以下のように発言する。

 

「まあ、上の判断でそう決まったならしょうがねえな。仕事するか……。

「……うん、だね」

俺の愚痴めいた独り言に、由比ヶ浜が苦笑交じりに頷きを返してくれた。

ともあれ、奉仕部としての方針はこれで決まった。タスクが発生したならそれを片付けるだけのこと。

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)206,207頁より。

 

雪ノ下を上司と見立て、その上司の承諾を部下の総意とするというのは真っ当な「理由」になりうる。

しかしこれは雪ノ下を手伝いたい、奉仕部で活動したいという「感情」をすり替えたものと考えるのが適切だろう。実際、雪ノ下から協力を断られた際に八幡は(雪ノ下が自立しようとしていることに対する)安堵と同時に寂寥を覚えている。

 

 

 

「お兄ちゃん」としての比企谷八幡

先程の話に加えてもう一つ重要なことは、八幡が常に「お兄ちゃん」であるということだ。これはAパートで陽乃から「君はいつも『お兄ちゃん』してるけど」という言により指摘されている。

 

八幡はぼっちという人生経験上、無条件に頼れる人といえば家族、もっと言うと妹しかいないのだ。

これもまた先述の生徒会選挙のシーンからの一節。

ぼっちは人に迷惑をかけないように生きるのが信条だ。誰かの重荷にならないことが矜持だ。故に、自分自身でたいていのことはなんとかできるのが俺の誇りだ。

だから、誰も頼りにしないし、誰にも頼られない。

ただひとつ例外があるとすれば家族くらいのものか。

家族にだけはどれだけ迷惑をかけてもいい。俺はどれだけ迷惑をかけられても構わない。

家族相手であれば、優しさや信頼、可能不可能をさしおいて、何はなくとも手を差し伸べるし、遠慮なく寄りかかる。

親父がちょっとしたなかなかの超ダメ人間でも、母親が結構賑やかで時折だいぶ小うるさくとも、俺がどれだけごく潰しであろうと、妹が可愛くて腹黒いのに底が浅くとも。

その関係は理由を必要としない。

むしろ「家族だから」をすべての理由にすらできる。

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑧』(ガガガ文庫、2013年)241,242頁より。

 

八幡が唯一距離感を測らずに踏み込める関係性、それが家族であるわけで裏を返せば家族という関係性以外に親しみ歩み寄る方法がわからないとも取れる(少し極論だが)。

八幡にとって「本物」の一つの答えは間違いなく家族のような関係性なのだろう。言葉で伝えなくとも互いを理解し合い、自己満足も、傲慢も許容できる関係性。正確にはどうか分からないが、少なくとも八幡が求めた条件には合致している気がする。

だから八幡が距離感を詰めようとするとき、家族、ひいては「お兄ちゃん」という役割を無意識的に投影しているのではないだろうか。

さらにこの推察を決定づける一文がある。

けれど、きっと、自立とはこういう類いのものなのだ。小町の穏やかな兄離れのように、ちょっと寂しくて、誇らしい。だから、これは祝福すべきことだ。

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)211頁より。

雪ノ下が一人で行動することを、小町の兄離れに例えている。もちろん八幡が言いたいことも全く分かるのだが、やはりそこに「お兄ちゃん」としてのバイアスがかかっているということは否めない。(ただ事実、雪ノ下もまた共犯的ではあるのだが。)

 

しかし雪ノ下が協力を断り自立を宣言した以上、八幡はもはや「理由」もなければ「お兄ちゃん」でもなくなる。いよいよ、八幡には動くための理論を構築できない。

 

仕事として請け負わない以上、明日からは俺がここへ来ることもなくなる。そう思うと、いささか名残惜しい。

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)211頁より。

 

果たしてこの名残惜しさがどこから生まれたものなのか。平塚先生風に言うと、それこそが「考えるべきポイント」というやつなのだろう。

 

 

 

動けないのは彼女も同じ

さて、ここまでは八幡に関しての問題点を挙げてきたが、動けないのは彼女、雪ノ下雪乃も同じである。

これまで雪ノ下は陽乃の影を追ってきたことは明らかであるが、だいたい生徒会選挙付近からその傾向が見られなくなってきたことは作中でも示されている。

それに対する陽乃と葉山の評価は以下である。

「そう、あれは信頼とかじゃないの。……もっとひどい何か」

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑩』(ガガガ文庫、2014年)341頁より。

 

「やっぱり、彼女は少し変わったな……。もう陽乃さんの影は追ってないように見える」

雪ノ下の姿を追う葉山の視線は、そっと細められていて鋭い。後に続いた言葉は暗かった。

「……けど、それだけのことでしかない」

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑩』(ガガガ文庫、2014年)333頁より。

八幡は陽乃の影を追うことを「主体性のなさ」と解釈していたが、2人の言葉を聞いて困惑するのだ。

 

更にこの言葉の意味が確信的になるのが、3人が由比ヶ浜家に行った夜での出来事だろう。雪ノ下が陽乃に電話する際、八幡の用いた表現をそのまま使ったのだ(アニメ2期12話、原作11巻)。これには由比ヶ浜と八幡も目を見合わせた。

 

つまり雪ノ下の影を追う相手、依存先が変わっただけ。葉山が「それだけのことでしかない」と評するのも頷ける。

 

今回の雪ノ下の自立宣言はそれを解決する(正確には「主体性のなさを改善する」)

ためのものなのであるが、雪ノ下には未だ八幡に対しての依存が散見される。

例えばアニメ第1話Aパート、由比ヶ浜が「ゆきのんの答えは、それ、なのかな……」という問いかけをした際には「それでも、自分でうまくできることを証明したい」と意見を通す雪ノ下だったが、八幡の「それが答えでいいんだよな」という問いかけには「まちがいではないと思うのだけれど……」と少し不安げな回答をするのである。加えて原作では”言い終えて、雪ノ下はちらりと俺を伺うような視線を送ってきた”というダメ押しまで入っている。

 

加えてアニメ第2話Bパート、一色のプロム計画を一人で受けたいと言う雪ノ下は、八幡に対して「私、まちえているかしら……」とまた不安げな表情で同意を求めようとするのである。

(そして興味深いのが、八幡はどちらの回答に対しても「いいんじゃねえの」と少し曖昧に濁した返事をしている)

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雪ノ下もまた、八幡に対する依存が抜けきっていないのである。

そして雪ノ下が八幡に何か求めようとするたびに八幡の「お兄ちゃん」が発動し、互いにその傾向がひどくなっていくという、なんとも厄介な関係性である。

(家族構成で八幡が「兄」であり雪ノ下が「妹」であるというのも、少し因縁のようなものを感じる)

 

 

 

由比ヶ浜や八幡が「それが答えなのか」と問うたように、或いは雪ノ下が「何がしたいかわからない」と言ったように、雪ノ下にはさらなる自覚が必要なのだろう。しかし今は、ひとつひとつを丁寧にやるという選択をした。たとえまちがっていたとしても、その決断は尊重されるべきものであると、私は思う。

 

 

 

余談1;由比ヶ浜結衣の「ずるさ」

 

常に八幡の一人称で語られ続けてきた『俺ガイル』の中、おそらく今回が初めてであろう由比ヶ浜結衣の独白。アニメ『俺ガイル』では放送尺の関係上カットされるシーンが多数あるが、特に由比ヶ浜の「ずるさ」に関しては(主に私が大好きという理由で)とても惜しいものがある。考察というより解説になってしまうが、是が非でも伝えさせていただきたい。

 

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その写真を見ることを、由比ヶ浜結衣は決意する。

 

 

 

あたしが聞いてしまったら、尋ねてしまったら、彼女は絶対に違うって否定して、そんなことはありえないって拒絶して、そしてそのままそれっきり。

 

(中略)

 

彼女の気持ちを聞くのはずるいことだ。

自分の気持ちを言うのはずるいことだ。

でも、彼の気持ちを聞くのは怖いから。

彼女のせいにしているのが一番ずるい。

 渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)98,99頁より。

 

これほど素敵な「ずるさ」があるだろうか。

 

由比ヶ浜結衣は全部欲しい。あの関係もこの関係も、全部貰う。一度はそれで雪ノ下を言いくるめてしまおうとしたくらい、卑怯な女の子。

ただ同時に雪ノ下を、八幡を想う気持ちもあって。雪ノ下の思いを尊重し、八幡の「本物」を笑顔で見届けようとしている。

 

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一番大切な存在たちへの想いに、一番大事な自分の気持ちを混ぜ込んだこの笑顔は、痛々しすぎて、美しくて。

 

心から報われてほしいと、そう思う。

 

 

 

余談2;「鍵」について

サブタイトルにも出てきた「鍵」についても考察しようと思いましたが、生憎私では本当に何も分からなかったので、更新できたらします(これはしないパターン)。

以下備忘録的に「鍵」について書き留めます。

 

一応作者さんがこのような発言をしていますが、その「変化」にどこまでの解釈を乗せれば良いか全くつかめなくて。

原作のサブタイ範囲は由比ヶ浜の回想ではなく3人が部室を出るシーンで終わるのですが、そこで八幡が

大事なものをそこへしまうように、かちゃりと鍵がかけられた。

その鍵は彼女だけが持っていて、俺は触れたことがない。

渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』(ガガガ文庫、2017年)211頁より。

 って言うんですが、そうなると「変化」って感じでもないなあ……という。ただこっちはこっちで何を意味するのかちょっと微妙。

私は「これからもずっと奉仕部をやっていたいけど、その決定権は雪ノ下だけが持つもので、俺にはどうしようもない」みたいなことなのかなと暫定的な解釈をしたものの、いまいちピンときてないなあという感覚です。あとはアニメでは由比ヶ浜結衣の独白で終わったのも、由比ヶ浜自体も「鍵(=奉仕部)」について思うところがあったという風に見せたいのかな、と思いました。

 

色んな意見がほしいので、ぜひコメントでいろんな解釈教えて下さい。

 

www.zaikakotoo.com

また「野の百合、空の鳥」さんがその疑問について言及されていました。普通にファンとして嬉しい。ただ断りもなく紹介しているので怒られても仕方ありません。そのときは地べたに這いつくばって平謝りします。

 

 

 

あといくつか記事に記載すべきか悩んでる考察があるので、こちらもまた更新するかもしれません(これはしないry)。

また3話の記事を書くと思うので、そのときについでに見に来てくれればとても嬉しいです。